高石神社(神奈川県川崎市麻生区)を訪問しました
高石神社(→神奈川県川崎市麻生区高石)は、江戸時代前期の1654(承応3)年にこの地を治めた旗本の加賀美正吉(かがみまさよし)が創建したと伝わる神社で、創建当時は「伊勢宮」と称していました。加賀美氏は甲斐武田氏の一門ですが、正吉の父・加賀美正光(かがみまさみつ)は1573(天正元)年生まれなので、1582(天正10)年3月11日に甲斐武田氏がが滅亡した時には数え年10歳でした。甲州合戦の際にはどこかに潜伏していたのでしょう。当時の史料に名が記されていないため、織田氏による残党狩り(→処刑)リストからも外れています。その後、正光は、1590(天正18)年の小田原攻めの際に徳川家康の旗本に取り立てられました。
高石神社を創建した加賀美正吉は正光の嫡男として1597(慶長2)年に生まれ、1614(慶長19)年の大坂冬の陣に18歳で参陣(初陣)しました。その後、2代将軍徳川秀忠から高石(→神奈川県川崎市麻生区)に107石8斗の知行(→年収1000万円ほど)を与えられました。加賀美氏は領内にある高石山法雲寺や萬松山潮音寺を開基するなど、高石村の整備に尽力しています。
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高石神社は1873(明治6)年に「神明社」と改称し、その後「高石神社」と改められました。現在の神明造(しんめいづくり)の社殿は1984(昭和59)年に改築されたものです。麓から社殿までの標高は117ⅿあり、小田急線「百合ヶ丘駅」から歩く場合はひたすら登り坂となります。
成人の日には、江戸時代から続く五穀豊穣を祈る「流鏑馬」(やぶさめ)の神事が行われます。ただ、高石神社の流鏑馬は馬に乗らず立ったまま射るのが特徴で、初めて見物する方は「弓道」と思われるようです。神事は時代とともに形を変えて継承されていくものなのでしょう。
〖祭神〗
・天照大神(あまてらすおおみかみ)
・応神天皇(おうじんてんのう)
・武甕槌命(たけみかづちのみこと)
・伊波比主命(いわいぬしのみこと)
・天児屋根命(あめのこやねのみこと)
・比売命(ひめのみこと)
・家都御子神(けつみこのかみ)
・速玉大神(はやたまのおおかみ)
・夫須美神(ふすみのかみ)
高石神社は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡高石村の条に「伊勢宮」として次のように記されています。
高石村
伊勢宮
村の西北にあたれる丘の上にあり、当社のあるを以て此辺を伊勢森と呼ぶ、本社宮作にて二間半に三間の覆屋あり、東向(ひがしむき)なり、神体は幅五寸(→約15cm)に長(ながさ)一尺(→約30cm)ばかりの版に書けり、絵様は上に日月をゑがき、下に童形あり、彩色を加ふ、裏に『承応三年(→1654年)甲午二月廿一日建立、加賀美金右衛門』と記せり、左右に稲荷第六天の二小祠を相殿とす、例祭は年々正月十五日又二月十五日、形ばかりの流鏑馬の式あり、事畢(ことおわり)て後かの料に用ひし木弓二張竹箭(たけせん)三手の内、弓一張矢一手を神前に納む、此(この)弓矢一夜の内誰持ち去るともなく失せぬるとぞ、又一張は民家に持帰り濁酒をかもして視(み)ふと云(い)ふ、此社地高き処(ところ)なれば四辺の森を打越(うちこえ)て江戸の辺、秩父御嶽の山々を望みて気色の地なり。
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【高石神社の鳥居】



【高石神社の参道】










【さらに続く高石神社の参道】











【高石神社本殿・拝殿】












【高石神社の神輿座】






【高石神社の厄石落し】



【高石神社の太鼓庫】



【高石神社二の鳥居】







(馬頭観音)
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「お伊勢の森」に立つぶっそうな看板を思わず二度見しました。


みんなと一緒に帰りましょう。


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コメント
Re: No title
コメントありがとうございます。
高石神社は思い出の地でしたか。懐かしさを感じていただき嬉しいです。今は神社の周りにも新しい住宅が増えて、ひとりで帰ってもこわくなさそうに思いました。看板も歴史なのですね。
2022-07-19 11:35 西住りほ URL 編集
No title
初詣はここでした。めっちゃ懐かしい。
そして看板も当時のままです(笑)
2022-07-19 06:16 金糸雀 URL 編集