細山神明社(神奈川県川崎市麻生区)を訪問しました
細山神明社(→神奈川県川崎市麻生区細山2丁目)は、「神明社」の名前の通り天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭神として祀る神社です。拝殿や本殿のある丘の麓(ふもと)には江戸時代以前の神仏習合時代の名残りを思わせる地蔵尊がいくつも建っています。しかし、それら地蔵尊の多くは首が修復されており、明治時代初期に行われた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく→仏像・寺院の破壊)の痕跡が見てとれます。
社伝によると細山神明社は鎌倉時代初期に創建されたとされますが、実際には鎌倉時代中期の2度の蒙古襲来(1274年・1281年)を退けた時期に、神仏習合従来の本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ→仏が上位で神は下位)が神国思想の高揚(→神社側の反撃)によって、反本地垂迹説(→神が上位で仏が下位)が高まりを見せた時期と考えられます。
また、細山神明社は関東地方に3社ある「逆大門(さかさだいもん)」の神社の1つです。通常の神社は鳥居をくぐって石段を上り社殿が位置するように建てられていますが、細山神明社は鳥居が丘の上にあって、坂の下に社殿が位置しているため「逆大門(さかさだいもん)」と呼ばれています。
江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹(たちばな)郡細山村の条にも、「社前一丁余(あまり)を隔てて鳥居を建つ。ここより社前までは下り坂なる故(ゆえ)土人(どじん→村人)これを逆大門(さかさだいもん)と呼ぶ。尋常の大門は皆坂下より上へ登れるに ここのみはかへ(え)りて下る故なり」と書かれています。
1868(明治元)年に明治政府により神仏分離令(→神道国教化に向けた神仏習合の禁止)が発布されると、1873(明治6)年に旧細山村の村社となり、明治時代末期の1911(明治44)年には旧細山村の稲荷社・杉山社・秋葉社・春日社と旧金程村の杉山社などが合祀されました。
【近代に建てられた鳥居と狛犬】








【廃仏毀釈の痕跡が残る地蔵尊】




【石碑】

【逆大門の鳥居】







【拝殿・本殿】











【境内】









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細山神明社は、古くから吹き出物や排泄の病気に悩む人々の信仰が盛んで、絵馬を奉納したり、藁苞(わらづと)に入れられた蛤(はまぐり)を神前に供えたりしたそうです。拝殿には、江戸をはじめ近郷の人々から奉納された絵馬が数多く懸けられていて、それらには婦人が拝んでいる姿や蛤の絵が描かれており、病気に悩む人々が神にすがる切実な願いが見てとれます。


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