保木薬師堂(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました
久しぶりに保木薬師堂(→神奈川県横浜市青葉区美しが丘西2丁目)を訪問しました。江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡石川村の条には「薬師堂 除地、四畝六歩、村の西にあり、東向にて四間四方の堂なり、薬師仏は坐像にて長二尺ばかり、萬蔵院持。」「萬蔵院 年貢地、村の西にあり、本山派の修験職なり。」と記されています。
境内の案内板によりますと、江戸時代中期の1783(天明3)年に清沢村(→神奈川県川崎市高津区千年)の大工の木嶋弥七・藤吉によって堂宇が建立され、その後、昭和時代末期の1987(昭和62)年に隣接する十社宮とともに保木土地区画整理事業に伴い移転改築し、茅葺(かやぶき)を銅板葺に変えて真言の梵字を掲げ内外を整備したそうです。なお、満蔵院は現存せず、保木薬師堂は昨日ご紹介しました真言宗豊山派の金剛山 成就院 満願寺(→神奈川県横浜市青葉区あざみ野4丁目)の境外仏堂として管理されています。
保木薬師堂の本尊は、鎌倉時代前期の1221(承久3)年に仏師尊栄が彫った高さ85.5cmの薬師如来坐像で県指定重要文化財となっています。本尊は薬師堂にはなく神奈川県立博物館に保管されています。
薬師如来坐像が作られた1221(承久3)年は、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のクライマックスである後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が執権北条義時(ほうじょうよしとき)追討の院宣(→上皇の命令)を発し、朝廷も北条義時追討の官宣旨(→数え年4歳の仲恭天皇の命令)を発して承久の乱を起こした年でもあり、鎌倉幕府の御家人の所領が多いこの辺りも俄かにざわついたことでしょう。
【保木薬師堂の案内版】




【保木薬師堂の本堂】













【保木薬師堂の境内】


【保木薬師堂の石像・石造物】
















【保木薬師堂の本尊(神奈川県ホームページより)】

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神仏習合の江戸時代には保木薬師堂と隣接する十社宮は満蔵院が管理していたと『新編武蔵風土記稿』に記されているように、たまたま訪問した日には十社宮と保木薬師堂に同じ人が常備水などを運び込んでいましたので、氏子さんか檀家さんか、満願寺の関係者かは分かりませんが、神仏分離後の現在も一緒に管理されているのかもしれません。歴史的にはそのほうが自然でしっくりきます。
↓↓満願寺について
↓↓十社宮について


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