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ごはん塚(神奈川県横浜市緑区)を訪問しました

ごはん塚(→神奈川県横浜市緑区鴨居7丁目)は、鎌倉時代前期の1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の御家人で「板東武士の鑑」と評された畠山重忠の郎党に関する史跡です。二俣川合戦で畠山重忠が幕府軍(北条軍)の愛甲季隆の放った矢によって討死すると、畠山氏の郎党や下人の何人かは戦場を離脱しましたが、幕府軍による残党狩りにより鴨居(→神奈川県横浜市緑区)で討ち取られた者がいたようです。

遺骸はしばらく放置されたようですが、のちに村人が遺骸を手厚く葬るために塚を建てたと伝わります。ごはん塚という名前の由来は「ご飯の時に襲われたから」「旭区から鴨居まで5つの塚があったから」「ご飯を盛った茶碗のような塚だから」など諸説がありますが、二俣川合戦の畠山軍は140人ほどで132人の首級が確認されています。なので残党は8人ほどということになります。四方八方に落ち延びたうちの5人ほどが鴨居村で討ち取られ、5つの塚が作られ埋葬されたと考えるのが自然かもしれません。

なお、ごはん塚は江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』には記されていません。2004(平成16)年頃に訪問した際には鬱蒼とした林の中に土の塚に卒塔婆が建てられていましたが、2015(平成27)年に緑区遺産に登録され、今回訪問した際には善徳院 蓮性寺(→神奈川県横浜市緑区鴨居6丁目)が設置した石碑や標柱が設置され、綺麗になっていました。


【ごはん塚の入口】
ごはん塚の入口



【ごはん塚】
ごはん塚1

ごはん塚2

ごはん塚3


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〖畠山重忠の乱 関係史跡(2022年9月23日紹介分まで)〗
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