医薬神社(神奈川県横浜市青葉区柿の木台)を訪問しました
医薬神社(→神奈川県横浜市青葉区柿の木台)は、安土桃山時代の天正年間(→1573年~1592年)に真言宗関東三ヶ寺の1つに数えられた医王山 薬王院 東光寺(→現在は廃寺)の境内社として創建されたのが興りと伝わります。医王山の「医」と薬師院の「薬」をとって「医薬神社」と名付けられたといいます。江戸時代前期の1649(慶安2)年には幕府(→3代将軍徳川家光の時代)より寺領5石を拝領しました。
東光寺は江戸時代の本山・末寺の制により「東の高野山」の異名を持つ星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)の末寺となりましたが、東光寺は医薬神社の別当寺として祭祀を司りました。
幕末期に水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の庶子として生まれた諦恵(たいけい)が東光寺住職となり、1868(明治元)年に明治新政府から神仏分離令が出されると、諦恵は水戸神道を奉じて僧侶から神職となり、東光寺を廃寺として医薬神社を独立創祀しました。この際、近隣の上谷本・下谷本・上市ヶ尾・成合の4ヶ村の檀家はそろって神道に改宗したと伝わります。真言宗寺院をターゲットにした廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が激しかったことも要因と思われます。
〖祭神〗
・大国主命(おおくにぬしのみこと)→出雲大社の祭神
・少彦名命(すくなひこのみこと)→医薬などの神
医薬神社は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡市ヶ尾村の条に「東光寺」として次のように記されています。
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市ヶ尾村
東光寺
境内御朱印地(→幕府より拝領した寺領)の内、村の東宇和田の内にあり、新義真言宗、郡内王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)の末、医王山薬王院と号す、客殿五間半に六間艮向(うしとらむき→北東)なり、本尊薬師は木の坐像にて長(ながさ)二尺五寸余(→約75cm)其(その)作を伝へず、開山の年代は其伝(そのでん)を失へり、慶安二年(江戸時代前期→1649年)八月二十日、本尊薬師へ高五石の御朱印を賜ふ。
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【医王神社の鳥居周辺】







【医王神社の拝殿・本殿】









【医王神社の境内】











【医薬神社の祠・地蔵尊】








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↓↓真言宗寺院をターゲットとした廃仏毀釈運動


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