大正寺(東京都調布市)を訪問しました
三栄山 大正寺(→東京都調布市調布ヶ丘1丁目)は、安土桃山時代から江戸時代にかけて創建された広福山 栄法寺・紫雲山 宝性寺・三栄山 不動院 寿福寺の3寺院を、大正時代初期の1915(大正4)年に合併して新たに創建された新義真言宗寺院です。3寺とも江戸時代には本山・末寺の制により星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)の末寺として幕藩体制の一翼を担っていました。
大正寺として合併されることになった由来は『調布市百年史』にも記されていませんが、創建された1915(大正4)年は、日本が三国協商側(連合国)として第一次世界大戦に参戦していた頃で、日本軍が攻略した山東省の旧ドイツ権益を日本が継承することや南満州鉄道の権益期限を延長することなどを求めた21カ条の要求を中華民国の袁世凱(えんせいがい)政権に受諾させた年でもあります。
現在の本堂は合併した旧栄法寺の本堂を、現在の観音堂は合併した旧不動院の観音堂を移築したものといいます。旧栄法寺は、神仏習合の時代には隣接する布田天神社(→東京都調布市調布ヶ丘1丁目)の別当寺として同社の祭祀を司っていました。
大正寺のもとになった栄法寺・宝性寺・不動院の3寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』多磨郡上布田宿の条と下布田宿の条に次のように記されています。
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上布田宿
布田天神社 別当栄法寺
除地、三段九畝二十七歩、本社の東にあり、新義真言宗都筑郡王禅寺村王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)の末、広福山常行院と号す、開基の由緒慥(たしか)ならずといへども、縁起に載する処(ところ)は前条の如し、法流開山は宥誉とて、享保十年四月三日(江戸時代中期→1725年、8代将軍徳川吉宗の頃)寂す、本尊木の坐像長(ながさ)二尺五寸(→約75cm)、客殿七間に五間。
下布田宿
宝性寺
境内除地、三段、是も(→前項の惺誉山 蓮慶寺と同じく)街道にあり、紫雲山と号す、新義真言宗、都筑郡王禅寺村王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)の末、開山開基つまびらかならず。
小島分村
不動院
境内除地、六段三畝、上布田宿境にあり、三栄山寿福寺と号す、新義真言宗、都筑郡王禅寺末、開山開基詳(つまびらか)ならず、過去帳に法印源春天正十八年(安土桃山時代後期→1590年、この地を治めていた小田原北条氏が滅亡した年)三月十九日寂すとみえたり、それより古きものを載せず、客殿六間、本尊不動立身の木像長(ながさ)一尺二、三寸(→約36~39cm)、郎弁の作といふ、上給村に国領宿の地あり、其所(そのところ)に不動野といふ所あり、当院の旧地なりと伝ふ、いつの頃かこの地に移りしや、その年暦を失へり。
地蔵堂
除地、一段五畝二十三歩、二間四方、街道の中央北側にあり、村持(むらもち)。
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【大正寺の山門・門前】





















【大正寺の本堂】







【大正寺の恵比寿神】









【大正寺の境内社】






【大正寺の観音堂】





【大正寺の仏堂】



【大正寺の仏陀像】








【大正寺の池・境内】










【大正寺の地蔵・石仏群】













【大正寺霊園】










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↓↓江戸時代の本山であった星宿山 蓮華蔵院 王禅寺
↓↓江戸時代まで別当寺を務めた布田天神社


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