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九郎明神社(神奈川県川崎市麻生区)を訪問しました

九郎明神社(→神奈川県川崎市麻生区古沢)は、鎌倉時代中期の建長年間(→1249年~1256年)に九郎判官(くろうほうがん)こと源義経(→源頼朝の異母弟)を祭神とする社を起源とする、旧古沢村の村社です。ただし、義経は「謀叛人」のため、中世から近世にかけて記録上は「祭神不詳」という扱いになっています。

戦国時代には文書(もんじょ)から消えますが、江戸時代中期の1711(正徳元)年に「久能社」として再建されたようで、福正寺(→明治初期の廃仏毀釈で廃寺になた真言宗寺院)が別当寺として祭祀を司ったと記されています。天明年間(→1781年~1789年)に大規模な改修がされ、江戸時代後期の1851(嘉永4)年9月と1916(大正5)年10月に社殿が改築されました。

小さな神社ですが、1922(大正11)年に近郷の天神社熊野社が合祀され、例祭の際に神奈川県知事から神饌幣帛料(しんせんふはくりょう→金銭)を拝領する神饌幣帛料供進神社しんせんふはくりょうきょうしんじんじゃ)に指定されました。


〖祭神〗
源義経(みなもとのよしつね)
伊弉諾命(いざなぎのみこと)
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
菅原道真(すがわらのみちざね)

九郎明神社は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡古沢村の条に「久能社」として次のように記されています。

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古沢村
久能社(→現在の九郎明神社)
除地(→諸税が免除された土地)、一畝、村の西によりてあり、覆屋九尺四方東向(ひがしむき)なり、祭神詳(つまびらか)ならず、村内福正寺(→廃寺)(もち)、以下二社も同寺の持(もち)なり。

天神社
除地、一畝、村の中央にあり、坤(つち→南西)の方に向(むき)てたてり。

熊野社
除地、一畝、村の中央にあり、これも坤の方に向(むか)ふ。

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【九郎明神社の鳥居】
九郎明神社の鳥居1

九郎明神社の鳥居2

九郎明神社の鳥居3

九郎明神社の鳥居4



【九郎明神社の参道】
九郎明神社の参道3

九郎明神社の鳥居5

九郎明神社の参道1

九郎明神社の参道2

九郎明神社の参道3

九郎明神社の参道4



【九郎明神社の社殿】
九郎明神社の社殿1

九郎明神社の社殿2

九郎明神社の社殿3

九郎明神社の社殿4

九郎明神社の社殿5

九郎明神社の社殿6

九郎明神社の社殿7

九郎明神社の社殿8

九郎明神社の社殿9



【九郎明神社の境内】
九郎明神社の境内4

九郎明神社の境内5

九郎明神社の境内6

九郎明神社の境内1

九郎明神社の境内2

九郎明神社の境内3

九郎明神社の境内7



【九郎明神社の境内社(稲荷社)】
九郎明神社の境内社1

九郎明神社の境内社2

九郎明神社の境内社3



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〖古沢地区の義経伝説〗
川崎市麻生区内には源義経にまつわる史跡がいくつも残されていますが、古沢の地にも義経の伝承が残されています。九郎明神社のある古沢の地は平安時代末期、奥州(→東北地方太平洋側)と鎌倉(→神奈川県鎌倉市)を結ぶ要地でした。

1180(治承4)年8月、奥州藤原氏の庇護下にあった源義経は異母兄の源頼朝が平氏打倒の挙兵をしたことを知り、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)に与えられた郎党を率いて頼朝のもとに馳せ参じました。その時に義経一行は古沢の地に陣を敷き、一夜を過ごしたといいます。村人からもてなしを受けた義経は小刀を贈り謝意を伝えたといいます。

この手の話はよくある伝承なので真偽の程は定かではありません。ただし、神社周辺は「義経四天王」の1人として知られる亀井六郎(→亀井重清)の所領があった地域でもあり、非業な死を遂げた源義経を偲んで創建された九郎明神社は、今でも地域住民の信仰は厚く例祭には「子ども神輿」も出されるようです。

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↓↓麻生区内の廃仏毀釈の実態


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