神鳥前川神社(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました
神鳥前川神社(しとどまえかわじんじゃ→神奈川県横浜市青葉区しらとり台)は由緒によると、鎌倉時代初期の1187(文治3)年5月に武蔵国稲毛荘の御家人稲毛三郎重成(しげなり→北条時政の娘婿、小山田有重の子、畠山重忠の従兄弟)が「霊夢」を受け、日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛(おとたちばなひめ)を祭神として祀った古社だと伝わります。
当初は「白鳥前川社」と称したようですが、いつの頃か白鳥が転じて「神鳥」と書くようになり、「しとど」や「しととり」と呼ぶようになったといいます。「白鳥前川社」の「白鳥」は日本武尊が白鳥になったという故事から、「前川」は近くを流れる恩田川(→鶴見川支流)と弟橘媛の入水の故事に重ね合わせて名付けられたようです。
神鳥前川神社の由緒には説明板でも同社ホームページ上でも、安土桃山時代中期の『天正十年(1582年)火災で社殿が焼失し、当時この地を治めていた上杉景虎(謙信の子)が社殿を新しく建立寄進し、かつ毎年春秋の上納金により三貫文を社料として免租するという内容の古文書が残されて居ります。』と書かれています。
しかし、上杉景虎(→北条氏康の7男、越相同盟締結の際に上杉謙信の養子となる)は、謙信死後に発生した家督争い(→御館の乱、おたてのらん)で同じく謙信の養子の上杉景勝に敗れて1579(天正7)年3月に自殺しています。よって、由緒にある古文書は誤読か誤認、あるいは偽書ということになります。
また、恩田村は関東の大大名・小田原北条氏の領国で、『小田原衆所領役帳』によると小机城主北条三郎(→北条幻庵宗哲の長男)が127貫で治めているため、上杉景虎が謙信の養子になる前の北条氏時代であっても恩田村を治めていたという箇所も事実誤認です。
神鳥前川神社は、江戸時代には高野山真言宗寺院の興栄山 信乗院 万福寺(→神奈川県横浜市青葉区田奈町)が別当寺として祭祀を司りました。そのため神体は不動明王(不動尊)だったようです。
明治時代後期の1910(明治43)年12月に国の一村一社政策を受けて、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉命(いざなみのみこと)を祭神とする無社格の神明社を合祀しました。
〖祭神〗
・日本武尊(やまとたけるのみこと)
・弟橘媛(おとたちばなひめ)
・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
・伊弉冉尊(いざなみのみこと)
神鳥前川神社は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡恩田村の条に「神鳥前川合社」として次のように記されています。
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恩田村
神鳥(シトド)前川合社
見捨地、五段許(ばかり)、村の東にあり、石段数級を登りて丘上に社あり、二間半に五間西向(にしむき)なり、社前に鳥居をたつ、例祭は九月にて某日を定めず、神鳥前川と云(いう)は、祭神は詳(つまびらか)ならざれど、神体は不動にて秘物(→秘仏)なりと云(いう)、本社の左の方に宮守の庵を置く、四間に二間ばかり、万福寺(→神奈川県横浜市青葉区田奈町)の持(もち)。
末社 天王社
本社に向(むかい)て右の方にあり。
神明社
見捨地、三段許(ばかり)、村の東の方にあり、南向(みなみむき)なり。
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【神鳥前川神社の一の鳥居】







【神鳥前川神社の参道・二の鳥居】





【神鳥前川神社の社殿】













【神鳥前川神社の境内社(伏見稲荷大社・八坂神社)】














【神鳥前川神社の境内社(富士仙元社)】









【神鳥前川神社の境内】















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〖近くの下恩田歩道トンネル〗
横浜市立谷本中学校の美術部が2004(平成16)年3月と7月に制作した壁アートが特徴的です。














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↓↓江戸時代に別当寺を司った興栄山 信乗院 万福寺


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