内方姫供養塔(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました
内方姫供養塔(→神奈川県横浜市青葉区あかね台1丁目)は、恩田川の氾濫で村が水没しかけた時に、自ら川に身を投じて水害から村を守ったとされる鎌倉幕府の御家人恩田氏の娘・内方姫(うちかたひめ)の供養塔と稲荷神社です。供養塔はかつては山の上にあったようですが、土地区画整理事業の一環で現在地に移されたといいます。
供養塔の隣には上恩田杉山神社(→神奈川県横浜市青葉区あかね台1丁目)にあったと伝わる稲荷社がともに祀られています。4月11日が内方姫の命日とされ、現在も地元の旧家14軒が「姫宮様講中」(ひめみやさまこうちゅう)を作り、交代で供養祭を行っているようです。
神奈川新聞の2019(令和元)年8月7日の記事には、内方姫の伝説を次のように記しています。
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中世の頃、恩田城(→恩田館があったのは鎌倉時代)(現在の福昌寺のあたり)に、内方姫という美しいお姫さまがいたそうです。この内方姫はとても心根が優しく、村人たちからもよく慕われていましたが、ある日の大雨によって恩田川が氾濫しかけたことがありました。
もう少しで堤防が切れ、村と田畑が濁流に飲み込まれようとしたとき、内方姫は館を飛び出して濁流が荒れ狂う恩田川のほとりに立ち、この身と引き換えに村を救うべしとの願いを込め、その濁流に身を躍らせたのだといいます。
すると、驚くことに濁流は嘘のように収まって村は救われたのだといいます。結局、内方姫の遺体はどこにも見つからなかったものの、土中からは内方姫の遺品であった櫛が見つかりました。
内方姫の高徳を偲んだ村人たちは、この櫛を内方姫の代わりとして、村をよく見渡せる高台に墓を築いてねんごろに供養したという事です。
この内方姫の供養は現在も休むことなく続けられており、元は農家であった旧家14軒の女性たちが「姫宮様講中」(ひめみやさまこうちゅう)を作り、現在でも輪番で年に一度、内方姫の命日とされる4月11日に供養祭を行っているという事です。
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人身御供(ひとみごくう)の話は、全国津々浦々で悲話として散見しますが、その多くが川の氾濫、すなわち水害に関するものです。
アニミズム文化(→岩石・樹木など全ての自然物・自然現象・動植物に霊魂が存在するとして、それを畏怖し、崇拝する原始信仰)においては、人間社会において最も大切な人身を供物として捧げることは神などへの最上級の奉仕と考えらえていました。
古代ローマでは紀元前97年(→紀元前1世紀)に、中国では3世紀に三国時代の魏国(曹魏→卑弥呼に「親魏倭王」の金印紫綬を与えた国)が人身御供を禁止しましたが、地域差はあるものの、日本では近代になっても人身御供や人柱の風習が残りました。国土の約75%が山地の日本列島は、太古から水害に悩まされ、治水が及ばない大河の氾濫に対しては、そこにいるとされた「水神」・「龍神」にすがる気持ちで「伝統」「風習」として供物を捧げていたのでしょう。
【内方姫供養塔】













【稲荷社】













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〖近くの熊野神社〗







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