徳恩寺(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました
摩尼山 延寿院 徳恩寺(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)は、平安時代前期の10世紀(→901年~1000年)に延命院という草庵が前身ですが、戦乱や自然災害、恩田郷を治めていた恩田氏(→金沢北条氏の被官)の没落により、延命院は鎌倉時代末期には廃寺寸前となっていました。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が行った建武の新政は一部の例外を除き公家にも武家にも評判が悪く、1335(建武2)年には各地で北条氏与党による叛乱(→中先代の乱など)が相次ぎました。北条氏の旧領である恩田郷も喧騒の渦中であったことでしょう。そんな折、僧の等海律師が廃寺同然だった延命院を高野山真言宗寺院の徳恩寺として中興開基しました。本尊の虚空菩蔵薩は室町時代に作られたと伝わります。
青葉区内の寺院の中でも古寺だけに寺宝も多く、真偽の程は定かではありませんが空海(→真言宗を開いた平安時代の高僧)の筆と伝わる金剛薩埵(こんごうさった→金剛菩薩)画像や、湛慶(たんけい→鎌倉時代の仏師運慶の嫡男)が彫った聖観音像が寺宝として残されているといいます。
かつては江戸時代中期の1779(安永8)年の鐘銘が入った梵鐘があったようですが、現在はないため、恐らく太平洋戦争の際に軍に供出したものと思われます。
江戸時代には本山・末寺の制により高野山宝性院(現在の宝寿院→和歌山県伊都郡高野町高野山)の末寺とされ、近隣の上恩田杉山神社(→神奈川県横浜市青葉区あかね台1丁目)と子之辺神社(このべじんじゃ→神奈川県横浜市青葉区恩田町)の別当寺として祭祀を司っていました。
徳恩寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡恩田村の条に次のように記されています。
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恩田村
徳恩寺
境内御朱印地(→江戸幕府から寺領として拝領した土地)の内、村の西柳沢佐渡守が采地にあり、古真言宗、高野山宝性院末、摩尼山延寿院と号す、開山は等海律師建武二年(→1335年)の開基にして、応安六年(南北朝時代中期→1373年、3代将軍足利義満の頃)三月三日寂せり、客殿十間に九間半東向(ひがしむき)なり、本尊虚空坐像にて、長(ながさ)一尺(→約30cm)ばかり、門東向(むき)なり、寺領七石は慶安二年(江戸時代前期→1649年、3代将軍徳川家光の頃)八月二十四日賜はれり。
寺宝
金剛薩埵(こんごうさった→金剛菩薩)の画像一幅、長(ながさ)二尺(→約60cm)余、幅一尺(→約30cm)許(ばかり)、弘法大師(→空海)の筆なり、何(いずれ)の頃にや当寺の僧高野山へ登りし時、護受けしと云(いう)、至(いたっ)て古物なり。
鐘楼
門を入て右の方にあり、一間半四方、安永八年(江戸時代中期→1779年、10代将軍徳川家治の頃)の鐘銘あり、後証に足らざれば略す。
弁天社
客殿に向(むかい)て左の方にあり、四間四方、東向(ひがしむき)なり、木像にて一寸八分(→約5.4cm)と云(いう)、秘して妄(みだり)にみることを免(ゆる)さず、湛慶(→鎌倉時代の仏師運慶の嫡男)の作なりと云(いう)、又正観音(→聖観音菩薩)の像を安ず。
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【徳恩寺の山門】











【徳恩寺の本堂】










【徳恩寺の内陣】





【徳恩寺の境内社(弁天社)】











【徳恩寺の池】



【徳恩寺の境内】




















【徳恩寺のGRACE「こころ」】


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↓↓江戸時代に別当寺として祭祀を司った上恩田杉山神社
↓↓江戸時代に別当寺として祭祀を司った子之辺神社
↓↓中先代の乱と井出沢古戦場跡


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