寿福寺(神奈川県川崎市多摩区)を訪問しました
仙谷山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)は、飛鳥時代前期の598(推古天皇6)年に開基された古寺で、平安時代に天台宗寺院となり、1060(康平3)年には前九年合戦に東国兵を率いて赴く際に源義家(→源頼朝の祖先)がこの地に宿し、寿福寺観音堂に参籠して開運を祈願したといいます。また、鎌倉時代初期の1185(文治元)年に源義経(→源頼朝の異母弟)・武蔵坊弁慶主従が大般若経を奉納し、寺宝として残されているようです。
たび重なる火災で寺は荒廃しましたが、南北朝時代後期の永徳年間(1381年~1384年)に、巨福山 建長興国禅寺(→建長寺、神奈川県鎌倉市山ノ内)の87代住職大安法慶が中興開基し、臨済宗建長寺派に改宗して今に至るといいます。1382(永徳2)年には鎌倉府(→室町幕府の関東統治機関)の2代鎌倉公方足利氏満によって大会堂・本堂・擁護廟の堂宇が造営されています。
江戸時代の本山・末寺の制では法縁の鎌倉建長寺の末寺となりますが、寿福寺自体も幕府から寺領7石を拝領し、萬松山 潮音寺(→神奈川県川崎市麻生区高石)や萬嶺山 香林寺(→神奈川県川崎市麻生区細山3丁目)などの末寺を持つ本山として幕藩体制の一翼を担いました。
寿福寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡菅(すげ)村の条に次のように記されています。なお、非常に長いので寺宝以下は省略いたします。
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菅村
寿福寺
村の西字仙谷にあり、或(あるい)は仙石郷とも云(いう)、故に当寺を仙谷山と号す、臨済宗相州(→相模国)鎌倉建長寺(→神奈川県鎌倉市山ノ内)の末、寺領七石の御朱印を賜る、境内は則(すなわち)御朱印地の内なり、今所蔵御朱印の内旧者は慶安元年(江戸時代前期→1648年、3代将軍徳川家光の頃)九月十七日なり、其(その)文に先規の寄附に任すと云々(うんぬん)、古縁起あり、左に載す。
『夫仙谷山寿福寺者、推古天皇六年(飛鳥時代前期→598年)、聖徳皇太子就于高橋丸之亡妃、入阿弥尼公終焉之地、造建七区練若、以資冥福之旧跡也、蓋山曰仙谷者、有仙人道鏡者、遅于此山、錬行修身積有年矣、亦曰道鏡谷也、今古怪異之事甚多矣、是仙人所為也、寺曰寿福寺者、会芟榛夷地之時、得虚空蔵薩埵之像、因標福一満之聖号、今号為、後建長曜侍者謄虚空蔵経一軸、而乞石室玖禅師之手墨、………(中略)………祈仏運之紹隆、而亹々不怠焉、応永十四年(室町時代前期→1407年)丁亥稔六月十八日、沙門宗円敬記焉。』
この宗円はその頃の住(→住職)なりと云(いう)、この縁起に載する所頗(すこぶ)る詳にして当時の事を証(あか)すべきもの多し、然るに今寺伝によれば、開山法慶は弘安元年(鎌倉時代中期→1278年、8代執権北条時宗の頃)九月七日寂せりと云(いう)、是縁起に云(いう)方慶(→法慶の誤記)氏満(→北条氏康の誤記)と交(まじわ)りし永禄年(戦国時代中期→1558年~1570年)より百五年前に当れば、寺伝の誤れるにや、又寺伝に法慶より先は天台宗なりしと云(いえ)り、古き寺院なること知るべし。
門
両柱の間一丈両控作なり、大門の前の坂を土人(→地元の人)庚申坂と呼ぶ、路傍に庚申塚ある故なり。
客殿
九間に六間半南向(みなみむき)なり、本尊虚空蔵坐像にして長(ながさ)八寸(→約24cm)作知らず。
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【寿福寺の山門】















【寿福寺の本堂】















【寿福寺の観音堂(大慈閣)】





【寿福寺の鐘楼】




【寿福寺の境内・庫裏】














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↓↓本山の巨福山 建長興国禅寺(建長寺)
↓↓江戸時代に末寺であった萬松山 潮音寺
↓↓江戸時代に末寺であった南嶺山 香林寺


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