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弁慶鍋ころがし(神奈川県川崎市麻生区)を訪問しました

川崎市内には源義経(→源頼朝の異母弟)にまつわる史跡が数多く残されていますが、「弁慶の鍋ころがし」(→神奈川県川崎市麻生区百合丘3丁目)として知られる高台もその1つで、現在は「王禅寺見晴し公園」として整備されています。

平安時代末期の1180(治承4)年10月21日に源義経は黄瀬川宿(→静岡県駿東郡清水町八幡)で源頼朝と涙の対面を果たし、呉座勇一氏はその際に義経は当時男子のいなかった頼朝の養子となったと指摘しています。奥州平泉(→岩手県西磐井郡平泉町)の藤原秀衡(ひでひら)のもとにいた義経は、頼朝が平氏追討の兵を挙げたことを知ると秀衡から与えられた軍勢を率いて仙谷山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)を通り頼朝のいる黄瀬川宿へと向かいます。

このとき、弘法松(→神奈川県川崎市麻生区百合丘2丁目)の先の細い尾根道で、従者の武蔵坊弁慶が乗っていた馬が足を滑らせ落馬しそうになり、弁慶がとっさに手綱を引き締めた途端、鞍の後ろに吊るしていた鍋の紐が切れ、谷底まで落ちていったといいます。そのためいつの頃にかこの高台を「弁慶の鍋ころがし」と呼ぶようになったようです。

真偽の程はさておき、平安時代前期の承平年間(→931年~938年)に源順(みなもとのしたごう)が編纂した『和名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう→日本初の国語辞典)には土偏の「堝(なべ)」と金編の「鍋(なべ)」が書き分けられています。須恵器(すえき)や土師器(はじき)に代表される土製の調理器が「堝(なべ)」、それらが鉄器の普及により金属製になると「鍋」と書き表すようになりました。なので、弁慶が落としたとされる「鍋」は金属製だったのでしょう。


【弁慶の鍋ころがし】
弁慶の鍋ころがし1

弁慶の鍋ころがし14

弁慶の鍋ころがし15

弁慶の鍋ころがし17



【王禅寺見晴し公園】
弁慶の鍋ころがし2

弁慶の鍋ころがし3

弁慶の鍋ころがし4

弁慶の鍋ころがし5

弁慶の鍋ころがし6

弁慶の鍋ころがし7

弁慶の鍋ころがし8

弁慶の鍋ころがし9

弁慶の鍋ころがし10

弁慶の鍋ころがし11


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↓↓源義経・弁慶が大般若経を奉納したと伝わる仙谷山 寿福寺

↓↓源義経を祀る九郎明神社

↓↓腰越状の「伝承」が残る龍護山 医王院 満福寺


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