牛頭天王社(神奈川県横浜市緑区)を訪問しました
牛頭天王社(ごずてんのうしゃ→神奈川県横浜市緑区長津田町)は、長津田村が小田原北条氏の領国であった頃、この地の領主であった引田氏が祇園社(現在の京都八坂神社→京都府京都市東山区祇園町北側)を勧請し、牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったのが始まりです。最初は現在の王子神社(→神奈川県横浜市緑区長津田7丁目)辺りにあったようですが、江戸時代中期の1796(寛政8)年に現在地に移されたようです。
北条氏の課役賦課台帳である『小田原衆所領役帳』には「長津田郷 三十一貫二百六十文 葛西様(→足利義氏のこと)」と書かれているので、引田氏は北条氏の御一家衆である古河公方足利義氏(→北条氏康の甥)を通じて北条氏に従属していたことが分かります。引田氏は北条氏滅亡後に長津田村の領主となった徳川氏の旗本岡田房恒と折り合いが悪くこの地を去ったようです。『横浜市史』によると昭和時代に活躍したマジシャンの初代引田天功は、この引田氏の子孫だといいます。
さて、牛頭天王とはもともとは祇園精舎(→釈迦が説法を行ったインドの寺院)の守護神とされる蕃神(ばんしん→外来の神)でしたが、疫病が流行した平安時代前期に仏教的な「御霊(ごりょう)信仰」と習合して疫神(えきじん→疫病を流行らせる恐ろしい神)とみなされ、牛頭天王を祀れば逆にその加護に預かり厄災を免れるとして日本全国に広く天王信仰(→牛頭信仰とも)が広がりました。早良(さわら)親王・菅原道真・平将門などと並び御霊信仰の典型といえます。
天王祭は疫病が流行する夏に開催されることが多く、山車(だし)や屋台などを繰り出して盛大に行われるのが特徴といえます。江戸時代中期の享保年間(→1716年~1736年、8代将軍徳川吉宗の頃)にも長津田村で疫病が流行り、村民が熱心に天王祭を行い病気平癒と疫病終息を祈願したと記されています。
天王祭は「祇園祭」(ぎおんまつり)とも呼ばれますが、これは八坂神社が神仏習合の頃は「祇園社」と称し牛頭天王を祭神としていたことに由来します。1868(明治元)年の神仏分離令により皇室に関係する素戔嗚命(すさのおのみこと)が祭神となってしましたが、牛頭天王は1000年以上にわたり信仰されてきた神仏習合の神で、御霊信仰から生まれた日本的な神といえます。なお、牛頭天王社は江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡長津田村の条には記載がありません。
【牛頭天王社の鳥居】




【牛頭天王社の参道】




【牛頭天王社の社殿】








【牛頭天王社の境内】




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↓↓御霊信仰の典型(将門塚)
↓↓御霊信仰の典型(神田明神)
↓↓御霊信仰の典型(生実神社)


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