大石神社(神奈川県横浜市緑区)を訪問しました
大石神社(→神奈川県横浜市緑区長津田町)は創建年代の詳細は不明ですが、人体ほどの石を神体として在原業平(ありわらのなりひら)を祭神として武蔵国と相模国の境界にありました。その後、村民どうしの境界争いの末、現在地に移されたと記されています。神仏習合の頃は「大石権現社」と称していました。
在原業平は皇族から臣籍降下した平安時代前期の貴族で、『伊勢物語』の主人公ともいわれています。また、業平は平安時代前期の905(延喜5)年に紀貫之(きのつらゆき)・紀友則(きのとものり)らによって編纂された『古今和歌集』仮名序の序文に代表的歌人(→六歌仙)として記されています。六歌仙は、百人一首でおなじみの在原業平・小野小町(おののこまち)・文屋康秀(ふんやのやすひで)・僧上遍昭(そうじょうへんじょう)・喜撰法師(きせんほうし)・大友黒主(おおとものくろぬし)の6名を指しますが、この言葉は後世の研究者が名づけた歴史用語であり、当時の人が「六歌仙」と呼んでいた訳ではありません。
大石権現社と呼ばれていた頃の祭神が在原業平であるのは、在原氏を排斥した藤原氏北家(→摂関家)から御霊信仰(ごりょうしんこう)の対象となる「怨霊」と考えられていたからでしょう。在原業平は政治的に非業な死を遂げたわけではありませんが、「朝臣(→在原業平)東国に下向し、死して石に化したり」と記されているように、祭神となる「何か」あったことを示唆します。何かしらの偉業を遂げたとされる人物を祭神として祀るのは近世・近代になってからのことです。
大石権現社は江戸時代には大石山 不動院(→廃寺、神奈川県川崎市麻生区にあった真言宗寺院)が別当寺として祭祀を司っていましたが、江戸幕府が滅亡し、1868(明治元)年に明治新政府が神仏分離令を発布すると、祭神が在原業平から大石大神に変わりました。大石大神とは『古事記』の中で天岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)を呼び戻すために裸踊りをした天宇受売命(あめのうずめのみこと)という女神のことです。
大石神社は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡長津田村の条に「大石権現社」として次のように記されています。
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長津田村
大石権現社
除地(→諸税が免除された土地)詳ならず、高札場の辺の丘上にあり、此社(このしゃ)あるを以(もっ)て字(あざ)をも大石山と呼(よべ)り、当社は在原業平朝臣(あそん)を祭れるなりと云(いう)、神体は石にてその大きさ人の容(かたち)に同じ、相伝ふ昔は相州(→相模国)の境にありて両国(→武蔵国と相模国)の百姓あらそひをこりしが、その後当村のものに定(さだま)りにより、此地へ祭りしと云(いう)、朝臣(→在原業平)東国に下向し、死して石に化したりと云(いう)、尤(もっとも)無稽(むけい→荒唐無稽)の説なること論をまたず、されど当所に祭ることも旧(ふる)きことと見えて、石階の上の左右に古木四株ならびたてるさまなり、すべて社地の生ひしげりたるをしれば、古代よりの地なること誣ゆ(しゆみ→作りごと)べからず、本社の上に覆屋あり、三間に四間、例祭は年々六月二十四日、不動院(→廃仏毀釈で廃寺、神奈川県川崎市麻生区にあった大石山 不動院)の持(もち)。
神明社
大石権現社の後にあり、この祠あるを以て、此所の字をも御伊勢の宮と呼(よべ)り、これはもと秣場(まぐさば→村民がまぐさを刈り取る共有地)の内へ勧請せしを、いつとなく土人(→村民)渇仰して、一間ばかりの祠とせりとぞ、故に除地と云(いう)ものなしと云(いえ)り、これも福泉寺(→神奈川県横浜市緑区長津田町)の持(もち)。
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【大石神社の参道】



【大石神社の鳥居】






【大石神社の拝殿】








【大石神社の本殿】





【大石神社の境内社(大石稲荷社)】







【大石神社の境内】











【横浜市指定古木の切り株(モミの木)】



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↓↓御霊信仰について(将門塚)


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