妙楽寺(神奈川県川崎市多摩区)を訪問しました
長尾山 勝寿院 妙楽寺(→神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目)は、開山開基の詳細は不詳ですが、平安時代前期の仁寿年間(→851年~854年)に創建された長尾山 威光寺(→別名長尾寺)の跡地に建立された天台宗寺院です。仁寿年間は天台宗寺門派の宗祖となる円珍(智証大師)が新羅商人の船で入唐(にっとう→唐に入国)した時期でもあります。
長尾郷は、鎌倉時代前期の頃は関東御領(→鎌倉幕府の経済基盤となった荘園・公領)となるなど、源氏将軍家と深い繋がりがあり、長尾寺も源頼朝の異母弟・阿野全成(あのぜんじょう→北条時政の娘婿)が院主を務める大寺院でした。
鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』の治承四年(平安時代末期→1180年)十一月十九日の条に「武蔵国長尾寺并(ならびに)求明寺等に於ては、僧長栄を以て沙汰を致す可(べ)きの旨を定め下さる。是(これ)源氏累代の祈願所なり。」と記されています。口語訳すると、「長尾寺並びに求明寺などを、僧長栄に管理させることを源頼朝が定められた。ここは源氏代々の祈禱所である。」となります。求明寺は横浜市内最古の寺として知られる瑞慶山 蓮華院 弘明寺(ぐみょうじ→神奈川県横浜市南区弘明寺町)と言われています。
長尾寺は鎌倉幕府の滅亡とともに北条氏の庇護を失い衰退したと考えられ、どの時期に妙楽寺として中興開基されたかは不明ですが、江戸時代には本山・末寺の制により浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。
また、神仏習合の頃は近くの五所権現社(→長尾神社の前身)の別当寺として祭祀を司っています。
妙楽寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡長尾村の条に次のように記されています。
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長尾村
妙楽寺
河内長尾の南にあり、此辺を妙楽寺台と云(いう)、天台宗にて長尾山勝寿院と号す、多磨郡世田谷領深大寺末、開山開基詳(つまびらか)ならず、客殿八間に七間巽向(たつみむき→東南)、本尊弥陀長(ながさ)三尺三寸(→約99cm)なるを安ず、又道情といひし者の木像なり、法体にて坐せる像なり、長(ながさ)二尺(→約60cm)許(ばかり)、此人(このひと)の事は旧家の条に出せり、
按に「東鑑」(→『吾妻鏡』)治承四年(→1180年)十一月十九日の条に、「武蔵国長尾寺并(ならびに)求明寺等、長栄可致沙汰之旨云々」とあり、求明寺は久良岐郡本牧領弘明寺(→神奈川県横浜市南区弘明寺町)なり、長尾寺といへるは未(いま)だ何(いず)れの寺院と云(いう)ことを聞(きか)ず、当寺長尾村の内にありて長尾山と号し、且(かつ)当国の内別にそれと覚(おぼ)しき古寺も見えざれば、恐(おそら)くは「東鑑」にいへるもの当寺の事なるにや、かの条(→治承四年十一月十九日条)にいへる僧長栄は今豊島郡雑司ヶ谷村法明寺(→東京都豊島区南池袋3丁目)の住職にて「東鑑」には法明寺の事を威光寺と記せり、是も今は山号となりて威光山法明寺と号するときは、古(いにしえ)の寺号を山号とせしこと其(その)例なきにしもあらず、されど寺伝は云(いう)もさらなり、土人(→地元の民衆)の語り伝へにもよるべきことなければ、こは今より断ずべからず。
鐘楼
薬師堂前にあり、享保年中(江戸時代中期→1716年~1736年、8代将軍徳川吉宗の頃)の新鋳にて其(その)考証となすべきことなければとらす。
薬師堂
境内にあり、三間に四間東向(ひがしむき)、薬師の長(ながさ)二尺五寸(→約75cm)許(ばかり)、坐像外(ほか)に十二神将あり、各長(ながさ)二尺(→約60cm)許(ばかり)、共に木像にて行基菩薩(→東大寺の廬舎那大仏の造立に貢献した奈良時代の高僧)の作なりと云(いう)。
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【妙楽寺の参道】






【妙楽寺の山門】






【妙楽寺の本堂】











【妙楽寺の薬師堂】









【妙楽寺の閻魔堂】











【妙楽寺の鐘楼】





【妙楽寺の祠(馬頭観音)】


【妙楽寺の地蔵・観音像】














【妙楽寺の境内】






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↓↓江戸時代に本山であった浮岳山 昌楽院 深大寺
↓↓深大寺と深大寺そばについて
↓↓妙楽寺が別当寺を務めた五所権現社(長尾神社の前身)


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