五所塚・権現台遺跡(神奈川県宮前区)を訪問しました
五所塚・権現台遺跡(→神奈川県川崎市宮前区五所塚1丁目)は、五所塚第1公園内に南北に並ぶ直径4ⅿ・高さ2ⅿ前後の5つの塚を中心とした遺跡群です。外観が古墳に似ているところから、江戸時代に編纂された地誌には墳墓と記されています。
しかし、川崎市教育委員会の調査により、現在は中世や近世になって尾根筋に築かれた平尾十三塚(→東京都稲城市平尾2丁目と神奈川県川崎市麻生区五カ田の境)と同様な「境信仰(→境界信仰とも)」の塚であったと考えられています。確かに五所塚第1公園は川崎市宮前区と多摩区の境界にあります。
五所塚第1公園から隣接する長尾神社(→神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目)に続く台地部分は、縄文時代中期から後期の集落跡が発掘され権現台遺跡と呼ばれています。五角形という特異な平面形をした縄文時代中期の竪穴住居跡や、河原石を4.5ⅿ×3.5ⅿの範囲に配した配石遺構(→祭祀場)見つかっています。
竪穴住居は縄文時代から奈良時代までの一般住居で、その名の通り地表を深さ50ⅿほど掘り下げ、その上に屋根を葺きおろした掘立柱の住居です。ただし、地面を掘り下げない平地式や、平地に敷石を敷き詰めた敷石式も併用され、場所によっては洞窟や洞穴も住居として使われることもあったため、必ずしも縄文時代の人々全員が竪穴住居に住んだというわけではありません。
五所塚・権現台遺跡は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡長尾村の条に「墳墓五ヶ塚」として次のように記されています。
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長尾村
墳墓五ヶ塚
小名神木谷にあり、五つながら並べり、長尾景虎(→上杉謙信)及び従者の墳墓なりと云伝(いいつた)ふれども、景虎は天正六年(戦国時代中期→1578年)越中(→越後の誤記)春日山の城にて没せしこと世にしる所、別にゆへある人の塚なるべし、相伝ふ昔此辺(このあたり)より石の匣(はこ→箱)を掘出せしことあり、大(おおき)さは大抵一尺四五寸(→約42cm~45cm)四方にて、蓋(ふた)に高印の二字を彫り、其中に真鍮(しんちゅう→銅と亜鉛の合金)の一丸あり、大さ銀杏の如し、是を振(ふる)へば、盧中に物ありて音をなせり、何に用ひしものと云(いう)ことは考ふべからざれど、葬具などにやと村老いへり、何(いず)れにも古(いにしえ)の明器の類なるべし、されどいつしか其ものをも失ひて今はなし。
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【五所塚・権現台遺跡のパネル】



【五所塚・権現台遺跡】







【五所塚・権現台遺跡の「稚児の松」】
江戸時代、毎年正月5日に行われていた五所権現社(→現在の長尾神社)の流鏑馬(やぶさめ)神事の際、射手となった稚児(ちご)の1人が落馬で死亡し、それを悲しんだ人々が亡骸を五所塚近くに葬り松を植えたという伝承が「稚児の松」です。


【五所塚第1公園からの景観】

(正面に富士山の山頂が見えます。)


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↓↓隣接する長尾神社について


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