盛源寺(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました
清水山 盛源寺(→神奈川県川崎市多摩区長沢1丁目)は、創建年代は不詳ですが、安土桃山時代に夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の3代住職・玄頓が開山した曹洞宗寺院です。玄頓は1591(天正19)年に死去しているので創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により修廣寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。
本堂へ向かう参道の右手には川崎市の重要郷土資料に指定されている「寛文十年霜月」(江戸時代前期→1670年11月)、「山王大権現為供養也」、「武州橘樹郡菅生郷長沢村」と刻まれた庚申塔があります。川崎市内には320基ほどの江戸時代の庚申塔が現存しますが、清水山 無量院 満財寺(→神奈川県川崎市幸区小倉2丁目)にある「寛文元年」(江戸時代前期→1661年)と刻まれた庚申塔が最古なので、盛源寺の庚申塔は市内の庚申塔の中でも初期のものといえます。
庚申信仰は、仏教思想に道教が習合して成立したもので、庚申の日は通夜で過ごす慣行がありました。古くは貴族や武家社会で信仰されていましたが、江戸時代に入ると地方村落の間にも普及し、百姓たちが庚申講(こうしんこう)を組織して60日に1度、講中の家に集まり祈禱ののち飲食を共にして楽しく過ごしたようです。庚申塔は近世の信仰の証として講中の人々が造立したもので、流行神(はやりがみ→短期間に爆発的な信仰を集め、一定期間が過ぎると急速に衰退していく神)への集団参拝とともに、貴重な民間信仰(→民俗学)の資料といえます。
盛源寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡五段田村の条に次のように記されています。
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五段田村
盛源寺
字(あざ)長沢にあり曹洞宗都筑郡片平村修廣寺末、清水山と号す、客殿七間半に六間共に巽向(たつみむき→東南)なり、本尊は三尊の弥陀木像にして長(ながさ)一尺(→約30cm)余立身なり、開山は貴山玄頓天正十九年(安土桃山時代後期→1591年)十一月二十六日寂せり。
観音堂
二間半に三間、客殿に向(むかい)て左にあり、銅像の聖観音を安す、長(ながさ)一尺六分(→約32cm)、近き頃江戸の或(ある)家より寄附したにより此堂を建立せしと云(いう)。
弁天社
門外右側にあり、神体は坐像にして長(ながさ)五寸(→約15cm)慈覚大師(→天台宗の高僧円仁)の作なりと云(いう)。
秋葉春日稲荷合社
客殿に向(むかい)て左の方高さ一丈ばかりの丘上にあり、四十年前(江戸時代中期→1790年)の勧請なりと云(い)ふ。
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【盛源寺の参道】




【盛源寺の庚申塔】



【盛源寺の山門】




【盛源寺の本堂】











【盛源寺の内陣】



【盛源寺の境内社(秋葉大権現)】








【盛源寺の観音堂】









【盛源寺の寿老人】








【盛源寺の弁天堂】








【盛源寺の貴山堂(開山堂)】








【盛源寺の境内】


(道元像)













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↓↓玄頓が住職を務めた夏蒐山 修廣寺
↓↓流行神(はやりがみ)と大山信仰について


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