秋月院(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました
長沢山 秋月院(→神奈川県川崎市宮前区菅生2丁目)は、戦国時代に小田原北条氏の家臣・大木頼母之助(おおきたのものすけ)の子・主馬之助(しゅめのすけ)が、地震で亡くなった両親を高野山(→和歌山県伊都郡高野町)に埋葬した後、出家してこの地に庵を創建したところから始まります。
1590(天正18)年に小田原北条氏が滅亡すると、北条氏旧臣の片山図書(→法名秋月月心)が夫婦で平村に隠居し、彼らが死去すると遺骸は大木主馬之助が創建した庵の側に埋葬され、墓守として仙住坊という真言宗の僧侶が庵に住むようになりました。庵は片山図書の法名から秋月院と名付けられたといいます。
その後、片山図書の子孫・片山弥兵衛(→法名秋月真恵)が秋月院に田地を寄進し、泰平山 東泉寺(→神奈川県川崎市宮前区平1丁目)の2代住職石岑を開山者として招いて曹洞宗寺院として開基しました。江戸時代には本山・末寺の制により法縁から東泉寺の末寺として幕藩体制の一翼を担っています。
秋月院は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡下菅生村の条に次のように記されています。
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下菅生村
秋月院
字(あざ)長沢にあり、曹洞宗平村東泉寺末、長沢山と号す、元禄五年(江戸時代前期→1692年)に記せし縁起あり、その略に云(いう)、小田原北条家人大木頼母之助と云(いう)ものあり、天正元年(安土桃山時代初期→1573年)地震せしとき家つぶれて夫婦ともに厭死(えんし→嫌な死に方)せり、その子主馬之助無常を感じ、頓(やが)て一片の姻となして父が守本尊(まもりほんぞん)の釈迦の像とともに、かの遺骨を背負いて諸国を廻り、その後高野山(→和歌山県伊都郡高野町)に納め、その身は道心者(→仏教修行をする者)となりて此地に庵をむすべり、その子孫慕ひ来て孝養を尽(つく)せり。
ここに片山図書と云(い)ひしものも小田原家人なりしか、天正十八年(→小田原北条氏が滅亡した1590年)落去の後郡内平村に隠居せり、いかなる故にや山田弥右衛門と云(いう)ものを聟(むこ)として、かの地へとどめ、その身は両人の男子をつれて当所へうつれり、文禄年中(安土桃山時代後期→1592年~1596年)図書没せしかば、かの大木入道が庵の側に葬り、墓守として仙住坊と云(いう)真言宗の道心者を大木が庵のあとへ住ましめり、これよりかはせり、図書夫婦が法名を秋月月心といひしによりて院号とせり、此時かの大木が子孫その祖の旧跡なるをもて、己が開発の田若干を寄附せり。
その後寛永年中(江戸時代前期→1624年~1644年)に本尊釈迦仏をはじめ回禄(→火災)にかかりて失へり、その後三滝と云(いう)僧寺地を今の地へ移せしは正保年中(江戸時代前期→1644年~1648年)のことなり。
延宝年中(江戸時代前期→1673年~1681年)牛波と云(いう)僧のとき又焼失(やけうしな)へり、今は准胝観音を本尊とす、これはもと松平土佐守が息女法謚泡影院窓幻大姉の護持の霊仏なりしが、大姉延宝八年(→1680年)六月二十一日没せし後縁故ありて、乞(こい)て当院の本尊とせしは元禄十二年(江戸時代前期→1699年)のことなりと云(いう)。
今も崇敬して龕(がん→仏像を納める厨子)に納めて常に開かず、前立の弥陀の木像長(ながさ)五尺(→約150cm)ばかりなり、客殿は六間半なり、開闢(かいびゃく→創建)の事蹟は前の如くにして、今本山の第二世石岑を開山とし、片山弥兵衛某法謚仙寿院秋月真恵法印を開基とす、この法印は寛永四年(→1627年)十一月六日没せしと云(いう)、縁起にいへる片山図書の子孫なるべし、図書が法名の字をふたたび法名とせしことあやむべし(→疑問に思うだろう)。
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【秋月院の参道】







【秋月院の山門】



【秋月院の本堂】











【秋月院の内陣】



【秋月院の境内】








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↓↓江戸時代に本山であった泰平山 東泉寺


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