西勝寺(神奈川県横浜市青葉区)を訪問しました
影顕山 西勝寺(→神奈川県横浜市青葉区新石川1丁目)は、京都の龍谷山 本願寺(いわゆる西本願寺→京都府京都市下京区堀河通花屋町下ル本願寺門前町)に属する浄土真宗本願寺派寺院です。
江戸時代中期に僧の順応(誕生年不明~1739年)によって開山されたと伝わりますが、江戸時代後期の1845(弘化2)年に、現在の美しが丘西(→神奈川県横浜市青葉区)で領主の旗本が花火を催した際、火の粉が西勝寺の屋根に落ちて全焼し、創建以来の伽藍が失われたといいます。旗本は切腹の準備を始めたようですが、住職が思い止まらせ、寺の再建費用として金と一振りの刀を預かったといいます。
江戸時代においては、放火と失火の刑罰は区別され、放火は「火付(ひつけ)」「附火(つけび)」と呼ばれ、同害報復(→目には目を、歯には歯を的な)の実刑で臨まれ、1742(寛保2)年に8代将軍徳川吉宗の享保の改革において町奉行大岡忠相(おおおかただすけ)らが編纂した「公事方御定書」(くじかたおさだめがき)では「火を附候(つけそうろう)もの火罪(→火あぶり刑)」と定めていますが、「失火については火元入寺・押込めなどの区部をみる」などと記されています。花火の火の粉による火災は失火にあたるので、住職は入寺・押込めの代わりに金と刀を受け取ったのでしょう。
さて、西勝寺と檀信徒は本堂再建の資金を得るために、女性たちが中心となって托鉢(たくはつ)などを行い、上野毛や深沢(→ともに東京都世田谷区)まで足をのばしたといいます。火災から2年後の1847(弘化4)年に本堂が再建され、境内も順次再建されていったそうです。
江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡小机領石川村の条には、焼失前の西勝寺について次のように記されています。
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西勝寺
除地、一段四畝二十歩、村の巽(→東南)の方にあり、京都西本願寺の末、影顕山と号す、客殿七間四方、坤(→西南)に向(むか)ふ、本尊阿弥陀仏、長(ながさ)二尺余(→約60.6cm)の立像なり、開山順応、元文四年九月朔日寂す。
太子堂
本堂に向(むかい)て左にあり、二間半に三間、太子は長(ながさ)五寸(→約15cm)ばかり、その作を伝えず。
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【西勝寺の参道】



【西勝寺の山門】







【西勝寺の本堂】












【西勝寺の内陣】




【西勝寺の境内】






(親鸞像)








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