光明寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました
天照山 蓮華院 光明寺(→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)は、鎌倉時代前期の1240(仁治元)年に、鎌倉幕府4代執権北条経時(ほうじょうつねとき)が佐助ヶ谷(さすけがやつ→神奈川県鎌倉市佐助1丁目)に良忠院 悟真寺(現在の住吉山 悟真院 正覚寺→神奈川県逗子市小坪5丁目)の僧良忠を招いて開基し、1243(寛元元)年に現在地に移された浄土宗大本山寺院です。創建時は「蓮華寺」といい、移転時に「光明寺」と改めたと記されます。江戸時代には浄土宗の関東十八檀林の第一位に格付けされました。
光明寺は格式の高い寺院として、戦国時代前期には後土御門上皇(ごつちみかどじょうこう)の帰依を受け、安土桃山時代の1591(天正19)年には関東入封を果たした徳川家康から寺領10貫文を、さらに1675(延宝3)年には江戸幕府から寺領100石を拝領し、大本山として幕藩体制の一翼を担いました。
境内は広大で、鎌倉幕府5代執権北条時頼(→経時の弟)が開基した建長寺や、8代執権北条時宗(→時頼の嫡子)が開基した円覚寺と並ぶ壮大な伽藍を構成しています。江戸時代前期の1698(元禄11)年に建立された本堂は国指定重要文化財で、鎌倉に現存する近世本堂で最大規模といえます。また、江戸時代後期の1848(弘化4)年建立の山門は神奈川県重要文化財に指定されています。
光明寺は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡材木座村の条に次のように記されています。非常に長いので堂宇と寺宝の箇所は省略します。
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材木座村
光明寺
天照山蓮華院と号す、浄土宗、関東総本山と称し十八檀林の第一位にして六派の本寺なり、仁治元年(鎌倉時代前期→1240年)北条武蔵守経時佐介谷に於(おい)て浄刹を創立し蓮華寺と名づく時に、僧良忠悟真寺に在り経時延(ひい)て開山初祖とし、武州足立郡箕田の地を寄附して寺領とす、寛元元年(→1242年)今の地に移転して堂宇を修復す、斯(かく)て経時夢兆(→夢のお告げ)に感じて光明寺と改む。
四年(→1245年)閏四月経時卒し嗣子(→弟の誤記)相模守時頼相承(あいうけたまわり)て崇信す、宝治二年(→1248年)良忠洛(→京都)の尼院にあり、後嵯峨上皇の戒師となり、香衣并(ならびに)上人号を賜ふ。建長元年(→1249年)鎌倉に帰(かえり)、時頼由良の地を割(さき)て寄附せり。良忠弘安十年(鎌倉時代中期→1287年)七月六日寂す、永仁元年(→1293年)勅謚ありて記主禅師と号す、良忠先師聖光の筆記を削定し述作頗(すこぶる)多し。
建武二年(→1335年)九月当寺造営の為修理田一町を寄附あり、貞治二年(南北朝時代前期→1363年)足利基氏(→尊氏4男、初代鎌倉公方)上総国湯井郷観応三年の例に任せ、寄附ある旨証状を授与す。其後(そのご)祐崇永正六年(戦国時代前期→1509年)十一月八日寂す、当寺の住職たり、是を中興の祖とす。
明応四年(→1495年)崇禁宮に入(いり)て弥陀経を講じて旨に協(かな)ふ、此時講経の宣旨(せんじ→後土御門天皇の命令)及(および)弥陀経を賜ふ、勅して慈覚大師(→平安時代の天台宗の高僧円仁)伝来の声明(しょうみょう→儀式で用いる経典の声楽曲)を風せしむ、崇衆僧を率(ひきい)て弥陀経及(および)念仏を誦唱(しょうじゅ)し、香衣并(ならび)に上人号を勅許あり。崇衆奏して殿修の式を永世光明寺に行ふ、今に十夜念仏と唱(となえ)るもの茲(ここ)に濫觴(らんしょう→物のはじまり)すと伝ふ。
享保五年(江戸時代中期→1720年)七月三浦郡南北の内、一向宗門の徒悉(ことごとく)当寺の檀越たるべき由下知あり、天正十九年(安土桃山時代後期→1591年)当所門前永(→永楽銭)十貫文の地を賜ひ延宝三年(江戸時代前期→1675年)六月三浦郡柏原にて寺領百石の御朱印を賜ふ。
寺宝
後土御門帝綸旨二通、伏見帝宸翰(しんかん)額一面、天照大神像一区……
(以下省略)
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【光明寺の総門】










【光明寺の山門】








【光明寺の本堂】
令和の大修理中

【光明寺の仮本堂(開山堂)】




【光明寺の内陣(開山堂内)】











(開山の良忠)


【光明寺の鐘楼】





【光明寺の境内社(稲荷大明神)】








【光明寺の境内】















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