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補陀洛寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

南向山 帰命院 補陀洛寺(ふだらくじ→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)は、平安時代末期の1181(養和元)年に源頼朝の祈願所として、僧の文覚(もんがく)が開山した真言宗大覚寺派寺院です。文覚は俗名を遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、後白河法皇源頼朝に重用されたもと北面の武士(→院御所を警固する武士)で、1180(治承4)年に平氏打倒を命じた後白河法皇の院宣を頼朝に仲介し挙兵を促したとされる僧侶です。

昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では歌舞伎俳優の市川猿之助さんが不良僧を演じていましたが、実際の文覚は京都と鎌倉を往復して諸国の情勢を頼朝に伝えたり、頼朝の協力を得て衰退していた高雄山 神護国祚真言寺(いわゆる神護寺→京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄町)の復興を成し遂げた人物です。

補陀洛寺は、初め真言宗御室派総本山の大内山 仁和寺(→京都府京都市右京区御室大内)の末寺でしたが、後に高野山真言宗飯森山 仁王院 青蓮寺(→神奈川県鎌倉市手広)の末寺となり、現在は真言宗大覚寺派大本山の嵯峨山 大覚寺(→京都府京都市右京区嵯峨大沢町)の末寺に属します。

創建当初は七堂伽藍をもつ壮大な寺だったようですが、たびたび竜巻の被害に遭い鎌倉時代後期には衰退し、南北朝時代に鶴岡八幡宮の供僧(ぐそう→神社で仏事を行う僧侶)頼基が中興したと記されます。戦国時代中期の1554(天文23)年には小田原北条氏(→当時は3代目北条氏康)より棟別銭(むなべつせん→家屋の棟数に応じて賦課された税)免除の下知を受けており、その時々の権力者に保護されていたことが分かります。


補陀洛寺は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡材木座村の条に次のように記されています。

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材木座村
補陀洛寺
南向山帰命院と号す、古義真言宗、往古京都仁和寺に属せしが、今は手広村青蓮寺末たり、開山は文覚(もんがく)にて養和元年頼朝祈願所として創建あり、其後(そのご)頽廃(たいはい)せしを鶴岡(→鶴岡八幡宮)の供僧頼基、鶴岡供僧次第に仏乗坊浄国院頼基大夫法印、文和四年(南北朝時代中期→1355年)二月二日寂す、千田大僧都と号すとあり、中興せり、天文二十三年(戦国時代中期→1554年)北条氏(→北条氏康)より棟別銭免除の下知あり、本尊不動及び薬師、長(ながさ)三尺七寸(→約111cm)行基作、日光・月光・十二神、長(ながさ)各二尺八寸(→約84cm)、共に運慶作、十一面観音、長(ながさ)三尺八寸(→約114cm)(ばかり)行基作、往昔の本尊なりと云(いう)、地蔵二区、一(ひとつ)は鉄仏、長(ながさ)一尺(→約30cm)(ばかり)、門前の井中より出現せしと云(い)ふ、一(ひとつ)は弘法(弘法大師→空海)作、長(ながさ)一尺七寸(→約51cm)、大黒、長尺許伝教(伝教大師→最澄)作、大日(→大日如来)、長(ながさ)八寸(→約24cm)、賓頭盧(びんずる)、長(ながさ)三尺已上(→約90cm以上)弘法(弘法大師→空海)作、等の像を置く、又頼朝の木像あり、長(ながさ)八寸許(ばかり)四十二歳の自作と云(いう)、鏡の御影と称せり、同位牌あり、征夷将軍二品(にほん)幕下神儀とあり文覚の書と云(いう)、開山文覚の碑もあり、開山権僧正法眼文覚尊儀とあり。

寺宝(省略)

牛頭天王見目明神合社
大道寺源六周勝車両二貫三百文及び寺修補の料を寄附せし事所蔵文書に見えたり、古文書部照し見るべし。

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【補陀洛寺の山門】
補陀落寺の山門1

補陀落寺の山門2

補陀落寺の山門3



【補陀洛寺の本堂】
補陀落寺の本堂1

補陀落寺の本堂2

補陀落寺の本堂3



【補陀洛寺の内陣】
補陀落寺の内陣1

補陀落寺の内陣2

補陀落寺の内陣3

補陀落寺の内陣4



【補陀洛寺の境内】
補陀落寺の境内1

補陀落寺の境内2

補陀落寺の境内3
(本堂前にはサルスベリの木が植えてあり、夏には桃色の花を咲かせます。)

補陀落寺の境内4

補陀落寺の境内5

補陀落寺の境内6

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〖補陀洛渡海(ふらだくとかい)〗
「補陀洛」(ふだらく)とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の海上にあると説かれた観音菩薩の住む浄土をいい、和歌山県の那智の浜からは25人の観音の信者が補陀洛を目指して自発的な捨身の船出を行ったと伝えられています。平安時代に5人(→平維盛ら)、鎌倉時代に1人(→下河辺行秀)、室町時代に12人、安土桃山時代に1人、江戸時代に6人という内訳です。

渡海者は30日分の食料と灯火のための油を載せて6メートルほどの屋形船に乗り込みます。渡海者が屋形の中に入ると扉には外から釘をうちつけ出られなくしたそうです。そして、曳航する伴船が沖で網を切断すると、返らぬ旅へと船出しました。


補陀落渡海
補陀洛船(写真提供: 日本経済新聞)


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コメント

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Re: 維盛について

>青梅波さん

コメントありがとうございます。質問は歓迎します。

『平家物語』と『源平盛衰記』で維盛の描かれ方は異なりますが、『平家物語』では維盛が一門から離脱した大きな理由として妻子への想いの深さを挙げ、仏教に救いを求める「弱者」として描かれています。

木曾義仲の入京で平氏一門が都落ちする際に維盛が妻子を同伴しなかったのは、妻が鹿ヶ谷の陰謀で平氏に反旗を翻した藤原成親の娘であることと、平家一門の主流となった宗盛・知盛兄弟から二心ある者と疑われていたことが影響しています。維盛は妻に出家を戒め、再婚(→源氏の誰かになる)を勧めますが、これも一門の行く末に未来がないというより、一門の中で自分の家系に未来がないということを実感した彼ならではの提言だったと思われます。

頼朝に助命された池大納言(平頼盛)と異なり、維盛は富士川・砺波山で追討軍の総大将として源氏と戦火を交えています。なので捕縛された場合助命される可能性はなかったはずです。その彼がわざと京都で捕縛される蓋然性は低いのではないでしょうか。

維盛について

他の一門は妻子を
連れて行くのに、
維盛はなぜ妻子を
都に残したのでしょう。
妻子に会うために
屋島の本陣を
抜け出して
京都で捕まったのは
わざと?演技?
だったのでしょうか。
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