千手院(神奈川県鎌倉市)を訪問しました
天照山 千手院(→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)は、観音堂として創建された天照山 蓮華院 光明寺の塔頭(たっちゅう→本寺の境内にある末寺)の1つで、赤い山門が目印です。
光明寺が大檀林(→仏教の最高学府)であった江戸時代には、学僧が修行する僧坊として使われたといいます。創建時の院号は専修院(せんじゅいん)でしたが、戦国時代中期の1532(天文元)年に住職の恢誉(かいよ)が守護仏として持ち込んだ千手観音像立像が鎌倉中で知れ渡ったことから千手院に改称したと伝わります。
江戸時代中期からは住職が材木座村の子どもたちに読み・書き・算盤(そろばん)などを教える寺子屋(→明治時代初期は桑揚学校)としても機能し、1872(明治5)年に学制が発布され小学校制度が整うまでの間、地域の庶民教育を担いました。境内には元禄文期(→5代将軍徳川綱吉の頃)の俳人松尾芭蕉(まつおばしょう)の「春もやや 気(け)しきととのふ 月と梅」という俳諧七部集の1つ『続猿蓑』(ぞくさるみの)に収録された句碑が建てられています。
千手院は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡材木座村の条に次のように記されています。
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材木座村
光明寺 塔頭千手院
総門を入て左にあり、按ずるに「鎌倉志」専修院に作る、当時しか書記せしにや、詳(つまびらか)ならず、千手観音を本尊とす。
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【千手院の山門】





【千手院の本堂】



【千手院の内陣】

(中央の阿弥陀如来坐像の後ろに千手観音立像があります)



【松尾芭蕉の句碑】

【千手院の境内・庫裏】




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↓↓千手院の本山である天照山 蓮華院 光明寺


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