啓運寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました
松光山 啓運寺(→神奈川県鎌倉市材木座2丁目)は、室町時代中期の1483(文明15)年に楞巌山 妙法寺(→神奈川県鎌倉市大町4丁目)の9代住職日澄が開山した日蓮宗寺院です。日澄は、法華経を講じ「啓雲抄」「註画讃」「日出台陰記」などを著した学僧としても知られます。日澄死後は無住となり、石井山 長勝寺(→神奈川県鎌倉市材木座2丁目)の住職が兼務しました。現在も専属の住職はいないようです。
江戸時代には本山・末寺の制により日蓮宗大本山の大光山 本圀寺(ほんこくじ→京都府京都市山科区御陵大岩)の末寺となりました。神仏習合の頃は、境内に地元漁師の信仰を集めた舟守稲荷が祀られていたようです。現在は本尊三宝尊とともに本堂に祀られています。
現在の本堂は昭和時代前期の1933(昭和8)年に再建されたものですが、旧本堂は1872(明治5)年8月に学制が発布され近代的学校制度が整備されると小学校校舎として使用されました。また、明治・大正時代を代表する西洋画家・黒田清輝(くろだせいき)も一時期本堂をアトリエとして使っていたといいます。
啓運寺は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡乱橋村の条に次のように記されています。
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乱橋村
啓運寺
松光山と号す、日蓮宗京都本圀寺末、本尊三宝を安ず。
稲荷社
舟守稲荷と号す。
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【啓運寺の山門】


【啓運寺の本堂】





【啓運寺の境内】



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〖啓運寺と黒田清輝〗
啓運寺本堂は、明治時代初期には小学校の校舎として利用されたほか、「湖畔」「読書」などの洋画で有名な黒田清輝(くろだせいき)が一時期アトリエとして使用していました。切手や教科書でもおなじみの作品です。

黒田清輝「湖畔」(画像提供: 黒田記念館)
箱根の芦ノ湖と彼岸の山を背景として涼をとる女性像はのちに黒田の妻になる女性で、1897(明治30)年の第2回白馬会展では「避暑」の題名で出品され、1900(明治33)年のパリ万国博覧会にも出品されました。

黒田清輝「読書」(画像提供: 黒田記念館)
フランス画壇へのデビューを果たした作品で、窓辺で本を読む女性は1884(明治17)年から1893(明治26)年まで留学していたフランス・パリ南東60kmほどにある小村の農家の娘マリア・ビヨーで、黒田と恋仲になり「婦人像 (厨房)」や「針仕事」など「読書」以外の作品にも登場し、黒田に様々なインスピレーションを与えました。
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