長勝寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました
石井山 長勝寺(せきせいざん ちょうしょうじ→神奈川県鎌倉市材木座2丁目)は、鎌倉時代中期の1253(建長5)年に松葉ヶ谷(まつばがやつ)の地頭を務めていた石井長勝(→三浦一族)が日蓮に帰依し、自邸の一部を法華堂として寄進したところから始まる日蓮宗寺院です。松葉ヶ谷は鎌倉入りした日蓮が松葉ヶ谷草庵を結んだ地として知られています。
創建時の堂宇は南北朝時代の1345(貞和元)年に京都へ移転し、現在の大光山 本圀寺(→京都府京都市山科区御陵大岩)となりました。移転理由は、この時期の長勝寺住職・日静が足利尊氏(→室町幕府初代将軍)の母・上杉清子の異母弟にあたり、尊氏の叔父であることから足利幕府及び北朝の光明天皇から支援の申し出があったからといいます。
松葉ヶ谷の堂宇は廃寺となりますが、室町時代中期に日隆(→日蓮の直弟子)が石井山 長勝寺として再興し、1590(天正18)年7月に小田原合戦で小田原北条氏が滅亡して徳川家康が関東入封を果たすと、翌1591(天正19)年11月に徳川氏から4貫300文を寺領として安堵されました。江戸時代には本山・末寺の制により本圀寺の末寺となっています。
長勝寺は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡大町村の条に次のように記されています。
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大町村
長勝寺
松葉谷(まつばがやつ)の南方にあり、石井山と号す、日蓮宗京都本圀寺末、寺伝に当所は日蓮庵室の地なり、其後(そのご)一寺をなし、日朗・日印・日静次第して住す、日静は将軍尊氏(→室町幕府初代将軍足利尊氏)の叔父にて当寺を京都に移す、今の本圀寺是なり、故に当寺は本圀寺旧跡と称す、後(のち)僧日際、正安元年(鎌倉時代後期→1299年)九月晦日寂す、其(その)旧跡たるを追慕し、更に一寺を創建せり、日際は俗称石井藤五郎長勝と伝えり、故に寺を長勝寺と名づく因(よっ)て日際を中興開山と称せりと云(い)ふ。
されど当所を京都本圀寺の旧跡と云(いう)は疑ふべし、寺宝宗祖(→日蓮)の筆跡二幅ありて、一(ひとつ)は建長六年(鎌倉時代中期→1254年)石井藤五郎長勝へ授与の物、一(ひとつ)は文応元年(鎌倉時代中期→1260年)九月松葉谷石井長勝家鋪(やしき)、法華堂にて書せし物と云へば当所長勝が宅地にて日蓮此辺(このあたり)小庵に在りし頃、長勝帰依して爰(ここ)に堂舎を営み、其後(そのご)一寺となし長勝寺と号せしならん、日静が本圀寺を京都に移せしは貞和元年(南北朝時代→1355年)なれば夫(それ)より四十六年已然(いぜん)、正安元年(鎌倉時代後期→1299年)に寂せし日際、当寺本圀寺旧跡に一寺を建(たてる)と云(い)ふもの年代事暦合(あい)期し難く、其訛(そのなまり→誤り)論ずべからず。
「鎌倉志」に長勝寺は荒地なりしを中頃日際旧地を慕ひ一寺を建立、又寺号とを長勝寺と号す、故に日際を中興開山と云(い)ふなり、当寺寛永元年(江戸時代前期→1624年)の鐘銘にも、日隆聖人所草創之精舎云々とあり、日際は房州(→安房国)小湊の人と云(い)ふ、再興の年代日際が死期もしれず云々、とあるに拠れば当時長勝入道日際当寺を開基せしが本圀寺京都に移転の後、当時も廃寺となりしを、其後日隆再建ありしより妙法寺と同じく本圀寺旧跡の訛伝は起りなるべし、天正十八年(安土桃山時代後期→1590年)小田原陣(→小田原合戦)の時豊臣太閤(→豊臣秀吉)制札を出せり寺領四貫三百文は同十九年(→1591)年十一月御朱印を賜へり、本尊釈迦を安ず、本堂は小田原北条氏の臣遠山因幡守宗為が建立と云(い)ふ。
……(寺宝以下、省略)
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【長勝寺の山門】



【長勝寺の本堂】







【長勝寺の法華堂】




【長勝寺の本師堂】







【長勝寺の鐘楼】



【長勝寺の地蔵・観音菩薩】






【長勝寺の境内】






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↓↓日蓮の辻説法について


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