八雲神社(神奈川県鎌倉市)を訪問しました
八雲神社(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、神仏習合の頃は「祇園天王社」と称し、平安時代後期、源義義(みなもとのよりよし)の三男・新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が後三年合戦(1083年~1087年)に参陣する際、鎌倉に疫病が流行していたことを知り、祗園社(今の京都八坂神社→京都府京都市東山区祇園町北側)を勧請したのが始まりです。社伝では永保年間(→1081年~1084年)の創建とありますが、新羅三郎義光が鎌倉に入ったのは1087(寛治元)年のことなので、1087(寛治元)年の創建ということになります。
新羅三郎義光の本姓は源義光(みなもとのよしみつ)といい、武田信玄や武田勝頼公をはじめとする甲斐源氏の直接の先祖にあたります。近江国(→現在の滋賀県)の新羅明神(しんらみょうじん→現在の園城寺・新羅善神堂)で元服したためその名で呼ばれるようになりました。
近代以前、疫病は「疫神」(えきじん)がもたらす厄災と考えられ、御霊(ごりょう)信仰と習合して祗園社の祭神・牛頭天王(ごずてんのう)を祀り病気平癒・疫病終息を祈ることで沈静すると信じられていました。
室町時代前期の応永年間(→1394年~1428年)には、常陸守護佐竹氏の屋敷にあった佐竹義顕(さたけよしあき→4代鎌倉公方足利持氏と対立して自害)の霊堂を祇園天王社に合祀しています。佐竹義顕は政治的に非業な死を遂げ、死後に「怨霊」の噂が立っているので、御霊信仰の対象となったのでしょう。
余談ですが鎌倉府(→室町幕府の関東統治機関)の管国の守護は、将軍ではなく鎌倉公方と主従関係を結び、鎌倉府に出仕することが義務付けられていました。これを「在倉制」(ざいそうせい)といいます。守護領国制(→現地に赴任し一国全体の支配権を確立した守護)により守護大名となった守護(→今川氏・武田氏・島津氏など)が有名ですが、それらと関東の守護とではその性格が異なります。戦国時代に入ると鎌倉公方は下総古河(→茨城県古河市)に移り在倉制は消滅しますが、公方と守護の繋がりは保たれており、古河公方が関わる紛争に旧鎌倉府管国の守護(→結城氏・千葉氏など)はしばしば参戦することになり、やがて一族が敵味方に分裂して没落し、新興勢力(→小田原北条氏など)の後塵を拝すことになります。
室町時代には祇園天王社の例祭はますます盛んになり、5代鎌倉公方足利成氏(あしかがしげうじ)の頃には公方屋敷に神輿が渡御した記録があり、安土桃山時代の1584(天正14)年6月には北条氏直(→小田原北条氏5代目)から祭礼保護の禁制(きんぜい)が出されています。江戸時代初期の1604(慶長9)年6月には江戸幕府から社領5貫文が安堵されました。
1868(明治元)年に神仏分離令が発布されると祇園天王社は「八雲神社」と改称され、祭神も牛頭天王から皇室がらみの素戔嗚命(すさのおのみこと)に変更されました。そして、1907(明治40)年には例祭の際に神奈川県知事から金銭を拝領する神饌幣帛料供進神社(しんせんふはくりょうきょうしんじんじゃ)に指定されました。
〖祭神〗
・素戔嗚命(すさのおのみこと)
・櫛名田比売(くしなだひめ)
・八王子命(はちおうじのみこと)
・佐竹義顕(さたけよしあき)
〖境内社〗
・御嶽三峰神社
・諏訪神社
・稲荷神社
・於岩稲荷社
→於岩さんは武士・町人に大人気でした。
八雲神社は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡大町村の条に「祇園次のように記されています。
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大町村
祗園天王社
松殿町にあり、永保年中(→1081年~1084年)新羅三郎義光の勧請にて神体は秘像と云伝(いいつた)ふ、氏成(成氏の誤記→5代鎌倉公方足利成氏)管領(→公方の誤記)の頃は毎年六月七日公方家鋪に神輿を渡して神楽を奏し奉幣の式あり、又十四日の祇園会(ぎおんえ)も是と同じ、桟敷を構へ舞練物等見物あり。
又応永年中(→1394年~1428年)佐竹四郎義秀の霊を祀(まつり)し社(やしろ)其(その)家鋪跡にありしが、後年大破に及(および)しより茲(ここ)に合祀すと云(い)ふ、其年代詳(つまびらか)ならず、故に土俗(→土地の風習)佐竹天王と称す、按ずるに義秀は頼朝(→鎌倉幕府初代将軍源頼朝)に属せし人にて時代違へり、応永の末に其(その)末葉(→分家子孫)佐竹上総介義顕(よしあき)入道管領持氏(→4代鎌倉公方足利持氏)の不審を蒙り討手を引請、終(つい)に比企谷の法華堂、今の妙本寺成にて自害す、其霊祟(たたり)ありとて一社に祀りし事あり、是今相殿の旧社にて義秀と云(い)ふは義顕(→佐竹義顕)の誤(あやまり)なるべし。
例祭旧(ふるき)に因(より)て六月七日より十四日迄行はる、本日当村、乱橋村の二所に仮屋を設(もうけ)、前の二村小町村、雪ノ下村の内大蔵町の四所に四座の神輿巡業あるを例とす、天正十四年(安土桃山時代後期→1584)年六月小田原北条氏より祭礼の時の制札を出せり、慶長九年(江戸時代初期→1604年)三月社領五貫文及山林竹木、守護不入の御朱印を給ふ。
………(寺宝以下省略)……
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【八雲神社の鳥居】




【八雲神社の参道】



【八雲神社の本殿】






【八雲神社の境内社(於岩稲荷社・稲荷神社・諏訪神社)】






【八雲神社の境内】


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↓↓御霊信仰と牛頭天王社(祇園社)について
↓↓陽運寺と於岩稲荷田宮神社について


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コメント
Re: 回答ありがとうございます
コメントありがとうございます。
質問が3つですので、➀~③に分けて返信します。
➀鎌倉公方も幕府が任命したのか。
鎌倉公方は室町将軍と同じく「天子ノ御代官」とされ、その地位は将軍による補任ではなく、元服儀礼(→将軍より一字拝領)を通じた足利将軍家の一員という関係確認のみで成立していました。鎌倉公方の存立は、そうした「承認」という行為のみに拠っていたため、鎌倉公方の将軍職に対する潜在意識(≒対抗意識)や、鎌倉府と室町幕府の関係を見る時に重要な意味を持ちます。おっしゃる通りそれが「対立や抗争をしているイメージ」につながるのでしょう。
➁永享の乱以外で(室町将軍と鎌倉公方の間で)大きな対立はあったのか。
鎌倉府と室町幕府の緊張関係が顕在化したのは、1379(康暦元)年の康暦の政変の時です。京都で管領細川頼之が失脚した際に、2代鎌倉公方足利氏満が政変に便乗して上洛を試みますが、関東管領上杉憲春がこれを阻止すべく諫言し、諫死しています。幕府(→3代将軍足利義満)は足利氏満の野心を問題視しますが、この時は鎌倉公方(→足利氏満)が将軍(→足利義満)に起請文を送って詫びたため不問とされたようです。両者の間を取り持つ人々(→禅僧など)が尽力したのでしょう。
3代鎌倉公方足利満兼も、1399(応永6)年の応永の乱(→大内義弘が和泉国堺で足利義満に反旗を翻した)に呼応して、鎌倉を出て武蔵府中に移座しています。ここは鎌倉公方が管国内の守護に軍勢催促をかけた際の集合場所でした。満兼は今川了俊(→九州探題を罷免され義満に反発していた)の仲介によって大内義弘と結びついたといいます。ただ、大内義弘が敗死したため、伊豆守護上杉憲定の画策で鎌倉公方(→足利満兼)が伊豆三嶋大社に願文をおさめる形式で事態の収拾を図りました。
③幕府が消滅するまで(将軍と公方は)対立していたのか。
鎌倉公方と室町将軍の対立が解消されたのは享徳の乱が終結する1482(文明14)年11月27日のことで、古河公方(→足利成氏)と室町将軍(→足利義政)の間で和睦(→いわゆる「都鄙和睦」)が成立しました。足利成氏は1455(享徳4)年に鎌倉から下総古河に拠点を移し、古河公方を名乗っています。都鄙和睦以降、関東も畿内も本格的に戦国時代となりますので、室町幕府が東国社会に対して大規模に関わりをもつことはなくなっていきました。その逆も然りです。
2023-02-12 14:01 副会長 西住りほ URL 編集
回答ありがとうございます
またお尋ねしたいのですが、
鎌倉公方も幕府が任命したんでしょうか。
将軍と公方は対立や抗争をしているイメージですが、
永享の乱以外で大きな対立はあったのでしょうか。
幕府が消滅するまでずっと対立していたり?
2023-02-12 12:20 アマリリス URL 編集
Re: 関東管領
コメントありがとうございます。質問は歓迎します。
関東管領は鎌倉公方を補佐していましたが、任命権は室町幕府にありました。関東管領には鎌倉公方の補佐役という役割のほか、鎌倉府と室町幕府を取り次ぐ役割がありました。また、公方が幼少の際には政務を代行するなど重要な役割を果たしたため、室町幕府(→特に管領細川氏など)は、関東に影響力を行使しやすい者(≒鎌倉公方に従順でない者≒室町幕府に反抗的でない者)を関東管領に任命する傾向がありました。実際、鎌倉公方が幕府に反抗的な動きを見せると、関東管領はたびたび公方に対して諫言しています。
関東管領は就任できる氏族が限られており、南北朝期に上杉憲顕(のりあき)が就任して以来、代々上杉氏(→足利尊氏の母方の実家)が担いました。上杉氏のなかでも犬懸(いぬがけ)上杉氏と山内(やまのうち)上杉氏が関東管領を務め、1416(応永23)年の上杉禅秀の乱で犬懸上杉氏が没落すると、山内上杉氏が独占するようになりました。なお、1378(永和4)年以降、関東管領は武蔵守護を兼ねるようになり、越後・上野・武蔵・相模・(上総)の守護を一門で独占しました。
戦国時代になると古河公方から北条氏綱・氏康父子が関東管領に、小弓公方から里見氏が関東管領に類する職に任じられています。これらは幕府が任命した関東管領ではありませんが、鎌倉府が消滅した戦国期になっても、関東管領がある種の権威を帯びていたことの証左といえます。
2023-02-12 10:00 副会長 西住りほ URL 編集
関東管領
関東管領は公方の補佐役のはずなのに、
何で公方に反抗ばかりしたのでしょうか。
公方も反抗しない関東管領を任命すればいいのに、
なぜ小賢しい曲者ばかり任命するのでしょうか。
2023-02-12 08:07 アマリリス URL 編集