fc2ブログ

常栄寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

恵雲山 常栄寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、鎌倉時代前期に源頼朝が由比ヶ浜を遠望するための桟敷(さんじき→一段と高く設けた見物席)から始まる日蓮宗寺院で、「ぼたもち寺」とも呼ばれています。「ぼたもち寺」の由来は、鎌倉時代中期の1271(文永8)年9月12日、印東左衛門尉祐信の妻(→桟敷尼)が、内管領平頼綱(→得宗家執事)命令で龍ノ口刑場(→現在の龍口寺)に連行されていく日蓮に牡丹餅(ぼたもち)を捧げたという伝承に基づきます。ただ、罪人として連行される者への接近は難しいため、真偽の程は定かではありません。

日蓮は処刑は有力御家人・安達泰盛(→得宗外戚)の計らいで中止となり、得宗北条時宗(→鎌倉幕府8代執権)の命令通り佐渡に流罪(→実際は佐渡守護・大仏北条宣時の館に「預かり」)となっています。日蓮宗ではこの出来事を龍ノ口の法難と呼んでいますが、史実と伝承が錯綜しているように見受けられます。


常栄寺としての開基は江戸時代初期の1606(慶長11)年で、池上本門寺(→東京都大田区池上1丁目)の14代住職日詔が開山、日祐尼(→紀州藩徳川氏の家老水野重良の娘)が開基しました。江戸時代には長興山 妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担っています。 
なお、常栄寺の寺号は「ぼたもち寺」の伝承にある桟敷尼(ざんじきに)の法名「妙常日栄」から採ったと言われています。


常栄寺は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡大町村の条に次のように記されています。

**************************
大町村
常栄寺
小名峰岸にあり、恵雲山と号す、本寺前に同じ(→妙本寺の末寺)、寺伝に拠るに古昔頼朝(→源頼朝)由比ヶ浜遠望の為、当所山上に桟敷を構へし旧跡なりとぞ、其後(そのご)兵衛左衛門と云(い)ふ者の此地(このち)に居住し即(すなわち)桟敷尼(さんじきに)と称せしとなり、法名妙常日栄、文永十一年(鎌倉時代中期→1274年)十一月十二日、八十八歳死す、故に当所旧(ふるく)は桟敷屋敷と唱へしなり、天正(→安土桃山時代)の頃、大窪与太郎保広本山妙本寺に此地を寄附せし事、同寺蔵文書に見えたり。

(かく)て慶長十一年(江戸時代前期→1606年)本山十四世、或(あるい)十三世と云(い)ふ、日詔、自證院と号す、元和三年(江戸時代前期→1617年)二月十九日寂す、池上本門寺にては、自性院に作る、四月寂すと伝ふ、当寺(→常栄寺)を起立し、宝篋堂檀林(ほうきょうどうだんりん)とす、寺号は桟敷尼の法名(→妙常日栄)を執れり、元禄二年(江戸時代前期→1689年)四月本山廿四世、或は廿一世と云(い)ふ、日玄、妙悟院と号す、宝永元年(江戸時代前期→1705年)七月三日寂す、此(この)檀林を池上本門寺域に遷(うつ)せり、今本門寺院家照栄院本堂に、朗慶山立善講寺の額を掲げ、南谷檀林と唱ふる即(すなわち)是なり。

是より後、当寺を檀林旧地と称す、其後(そのご)日祐、慶雲院と号す、元禄四年(江戸時代前期→1691年)七月十九日寂す、が時、更に諸堂再建あり、故に日祐中興と唱ふ、本尊三宝祖師及び鬼子母神(きしもじん)の像を安ず、講堂に桟敷尼(さんじきに)の像を置き桟敷大明神と称す。

**************************

【常栄寺の山門】
常栄寺の山門1

常栄寺の山門2

常栄寺の山門3

常栄寺の山門6

常栄寺の寺紋

常栄寺の山門8



【常栄寺の本堂】
常栄寺の山門4

常栄寺の本堂1

常栄寺の本堂2

常栄寺の本堂3



【常栄寺の内陣】
常栄寺の内陣1

常栄寺の内陣2

常栄寺の内陣3



【常栄寺の境内】
常栄寺の境内1

常栄寺の境内2

常栄寺の境内3

常栄寺の境内4

常栄寺の境内5


**************************
↓↓日蓮の辻説法について


にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ にほんブログ村 旅行ブログ 旅日記・旅の思い出へ

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

img { pointer-events: none; } img { -webkit-touch-callout:none; -webkit-user-select:none; -moz-touch-callout:none; -moz-user-select:none; touch-callout:none; user-select:none; }