妙本寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました
長興山 妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、1203(建仁3)年9月2日の比企能員(ひきよしかず)の乱で滅亡した比企一族の屋敷跡に比企能本(ひきよしもと)が開基し、日蓮が開山した日蓮宗の霊蹟本山寺院です。創建は鎌倉時代中期の1260(文応元)年と伝わります。
比企能本(ひきよしもと)は比企能員の乱の前年に生まれた比企能員(ひきよしかず)の末子で、『吾妻鏡』には、比企能員の妻妾と能員の2歳(→数え年)の男子は助命され、和田義盛に預けられたのち安房国(→千葉県南部)へ配流となった、と記されています。この2歳の男子が比企能本で、彼は鎌倉幕府4代将軍九条頼経の正室・竹御所(たけのごしょ→源頼家の娘)の計らいで鎌倉に戻り、1253(建長5)年に日蓮宗に帰依しました。妙本寺の山号と寺号は、比企能本の法名「日学妙本」から採られたとも、能本が父母に贈った「長興」「妙法」の法号から採ったとも言われています。
日蓮が身延山 妙法華院 久遠寺(→山梨県南巨摩郡身延町身延)に移った後は、直弟子で日蓮六老僧の1人・日朗が妙本寺の住職を務め、太平洋戦争が始まる1941(昭和16)年まで歴代住職は日朗が拠点とした池上本門寺(→東京都大田区池上1丁目)の住職と兼帯しました。
妙本寺は、略縁起についてホームページ上で次のように記しています。
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妙本寺は、日蓮聖人を開山に仰ぐ、日蓮宗最古の寺院です。開基は比企能員(ひきよしかず)の末子で、順徳天皇(→承久の乱で佐渡に配流)に仕えた儒学者比企大学三郎能本(ひきのだいがくさぶろうよしもと)です。
この地は比企能員一族が住む谷戸(やと)であったことから「比企(ひきが)谷(やつ)」と呼ばれています。しかし、比企一族は建仁3年(1203年)に権力保持を目論む北条一族によって滅ぼされました。その争いを「比企の乱」といいます。
比企の乱の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企大学三郎能本でした。能本は、鎌倉の町に立って生命(いのち)がけの布教をされている日蓮聖人に出会い、「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない!」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりです。
日蓮聖人は、文応元年(1260年)比企能本の父・能員(よしかず)と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けられました。
第二祖は日朗聖人、第三祖日輪聖人を迎え、以来妙本寺と池上本門寺は一人の貫首が両山を統轄する方式が第74世酒井日慎聖人の代まで(昭和16年まで)続きましたが、第75世島田日雅聖人の代より専任の貫首を迎えることになりました。
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【妙本寺の門前】



【妙本寺の総門】



【妙本寺の方丈門】



【妙本寺の二天門】










【妙本寺の本堂】







【妙本寺の内陣】



【妙本寺の祖師堂】






【妙本寺の鐘楼】


【妙本寺の日蓮像】


【比企一族の墓】








【一幡の墓(一幡之君袖塚)】

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〖比企能員(ひきよしかず)の乱〗
源頼朝の意図は、北条氏と比企氏が協力して後継者(→鎌倉幕府2代将軍)源頼家を支えることにありましたが、梶原景時滅亡後、両者は激しく対立しました。両者の対立は「ポスト頼家」をめぐる意見の相違にあります。頼家の弟・千幡(→のちの3代将軍源実朝)を後見する北条時政は、頼家の後継として千幡を望んでいました。一方、比企能員の娘・若狭局(わかさのつぼね)は頼家の子である一幡を産んでおり、能員は一幡を頼家の後継者と考えていました。
どちらも「3代将軍」の外祖父(がいそふ→母方の祖父)の地位がねらえる立場にありましたが、歴史学者の坂井孝一氏は、頼朝が頼家の正室に選んだのは源氏一門の加茂重長の娘であり、彼女が産んだ公暁(くぎょう/こうきょう)こそが頼家の嫡男であったと主張しています。この説が正しければ北条時政と比企能員は、頼朝の遺命に反する形で自分の外孫を3代将軍に据えようとしていたことになります。

比企能員と一幡(「鎌倉殿の13人」より/画像提供: NHK)
1203(建仁2)年9月2日の比企能員の乱については、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』の記事は北条氏の検閲が入り信憑性に欠けるため、天台座主慈円(→九条兼実の弟)が著した歴史書『愚管抄』(ぐかんしょう)の記述を簡潔に記します。
1203(建仁2)年7月に大江広元邸で倒れた源頼家は、病気が重くなったので8月晦日に出家し、一幡への家督継承準備を進めす。しかし、9月2日、一幡の外祖父である比企能員の権勢が高まることを恐れた北条時政が能員を呼び出して謀殺し、さらに一幡を殺害するため比企邸に軍勢を差し向けました(→小御所合戦)。一幡は母の若狭局が抱いて比企邸を逃げ延びますが、残る比企一族は皆討たれます。
やがて、病気が癒えた頼家は事件の顛末を聞いて激怒し、太刀を手に立ち上がりますが、北条政子(→頼家の母)がこれを押さえ付け、9月7日、伊豆・修禅寺に押し込めます。同年11月に一幡は捕らえられ、北条義時の手勢に刺殺されました。また、頼家も翌1204(元久元)年7月18日に刺客によって修禅寺で殺害されました。

回復した頼家(「鎌倉殿の13人」より/画像提供: NHK)
一幡を殺害するための小御所合戦に参加した中心は、伊豆の武士、そして北条氏と縁戚関係にある源氏一門の平賀朝雅(ひらがともまさ)・三浦義村・畠山重忠らです。この襲撃が政子の命令によってなされたことからも分かるように、鎌倉殿である頼家が危篤状態のため政子は鎌倉殿代理の立場にありました。呉座勇一氏は、「病床の頼家は死後の往生を願って出家しているように、自らの病死を覚悟していた。政子らも頼家が早晩に亡くなることを確信していた。」と指摘します。
時政の挙兵は頼家の病死を前提としたものであり、頼家の奇跡的な回復は想定外の事態だったはずです。政子も頼家が死去すると思ったからこそ比企氏討伐・千幡(→源実朝)擁立に同意したのだと推察されます。時政・政子・義時の目的は、あくまで比企氏討伐であり、頼家追い落としではありません。しかし、一幡への代替わりが行われれば、将軍生母という政子の立場は失われ、時政も将軍外祖父の地位を失い北条氏の権力は低下します。自身の立場と実家北条氏の地位を守るため、政子は決断を下したのでしょう。
比企氏を滅ぼし千幡(→源実朝)を擁立した時点で、頼家が回復しても、もはや取り返しがつきません。政子には頼家を追放する以外の選択肢はなかったはずです。頼家の殺害に政子が関与したかは不明ですが、頼家追放から殺害まで1年を要していること、千幡(→源実朝)の地位を脅かす公暁を保護していることを考慮すると、北条氏内部でも頼家を殺害するかどうかで意見が分かれ、政子は頼家を生かそうとしていたことが分かります。

千幡擁立(「鎌倉殿の13人」より/画像提供: NHK)
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↓↓若狭局と蛇苦止堂について
↓↓畠山重忠の乱と畠山重忠古戦場跡


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