蛇苦止堂(神奈川県鎌倉市)を訪問しました
蛇苦止堂(じゃくしどう→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、鎌倉時代中期に北条政村(→北条義時5男、母は伊賀氏、7代執権)が若狭局(わかさのつぼね→源頼家の妻)を供養するために長興山 妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)境内に建立して堂宇です。創建は1260(文応元)年と伝わります。
若狭局は、1203(建仁3)年9月2日の比企能員(ひきよしかず)の乱で北条氏に滅ぼされた能員の娘で、2代将軍源頼家の側室となり長男一幡(いちまん)を生みますが、北条氏の命を受けた三浦義村・畠山重忠らの手勢に屋敷を攻め込まれ、一幡を逃したのち井戸(→蛇形の井と呼ばれる)に飛び込み自殺したと伝わります。

若狭局(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」より/画像提供: NHK)
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鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』の文応元(→1260)年十月十五日及び十月二十七日条には、北条政村息女が、「蛇と化した比企能員(ひきよしかず)の娘・讃岐局(さぬきのつぼね→若狭局の誤記)の怨霊に憑りつかれたが、政村が写経を行い加持祈祷を行なわせたところ、蛇のように舌を出し、唇を舐め、身をくねらせていた政村の娘は正気を取り戻した」という話が書かれています。
怨霊や霊魂の存在を信じる現代人はいないと思いますが、古代・中世の人々は、密教や修験道など神仏習合の影響で怨霊(おんりょう)・生霊(いきりょう)・呪詛(じゅそ)などの存在を信じ、恐れていました。江戸時代後期になると洋学(→蘭学など)の伝来などでそれらへの恐れは弱まり空前の怪談ブームとなりますが、古代・中世の権力者は、政治的に非業な死を遂げた者(→怨霊)を神(→御霊(ごりょう)として祀ることで、厄災から免れようと御霊信仰に懸命でした。
前述の『吾妻鏡』の引用箇所でも、「写経を行い加持祈祷を行わせたところ」というあたりに、監修した北条氏の御霊信仰が見てとれます。『吾妻鏡』には、忘れた頃に過去の怨霊が現れ災禍をもたらすというパターンが散見します。そして、加持祈祷を行い怨霊を慰撫することでそれらは収まるという定型様式に落ち着きます。そこには御霊信仰の他、「理世撫民」(→世を治め民をいたわること)の姿勢を強調する思惑がちらつきます。
理世撫民の姿勢を伝えるために、1203(建仁3)年の比企能員の乱で滅亡した若狭局(わかさのつぼね→源頼家の妻)を登場させている所が興味深いところです。なぜなら、北条政村は1205(元久2)年6月22日生まれなので、比企能員の乱は政村が生まれる2年前の出来事です。従って政村の娘が若狭局に恨まれる筋合いは全くないのですが、蛇苦止堂の建立(→御霊信仰)によって比企一族の「怨霊」を北条氏への「加護」に転化し、理世撫民を示して北条氏の政治(→得宗政治への移行期)の正当性を強調しているようにも読み取れます。生霊も怨霊も、実在しないものだからこそ権力者によって都合よく定義され、利用されていたことが分かります。
【妙本寺の総門】


【蛇苦止堂の参道】


【蛇苦止堂の本堂】
若狭局は妙本寺の守り神「蛇苦止明神」(じゃくしみょうじん)として祀られています。日本に限ったことではありませんが、信仰とは解釈次第で鬼にも蛇にも神にも変わるものだと改めて考えさせられます。





【蛇苦止堂の内陣】




【蛇苦止堂の境内】

(蛇形の井戸)






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