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日蓮辻説法跡(神奈川県鎌倉市)を訪問しました

日蓮辻説法跡鎌倉日蓮堂(→神奈川県鎌倉市小町2丁目)は、日蓮宗を開いた日蓮が、鎌倉時代中期の1253(建長5)年に、安房国の千光山 清澄寺(→千葉県鴨川市清澄)から松葉ヶ谷草庵(まつばがやつそうあん→神奈川県鎌倉市大町名越)に入り、龍ノ口の法難が起きた1271(文永8)年までの18年間、辻説法(→道が交差した場所に立って道行く人に説法すること)を中心とする布教活動を行ったとされる場所です。

日蓮は、この場所で法華経の布教に努め、他の宗派を「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と厳しい言葉で批判しました。さらに日蓮は1260(文応元)年に得宗北条時頼(→鎌倉幕府5代執権)に献上した『立正安国論』をあらためて清書し、得宗御内人の宿屋入道最信(やどやにゅうどうさいしん)を通じてこれを最高権力者の得宗北条時宗(→鎌倉幕府8代執権、時頼の嫡子)にささげ、自己の意見を述べています。

この時期、叡尊(えいそん→真言律宗の開祖)の弟子忍性(にんしょう)は、北条重時が創建した真言律宗寺院の霊鷲山 感応院 極楽寺(→神奈川県鎌倉市極楽寺3丁目)にあり、巨福山 建長興国禅寺(いわゆる建長寺→神奈川県鎌倉市山ノ内)の禅僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)とともに北条氏一門の信頼を得ていましたが、はじめ念仏宗(→浄土宗・浄土真宗・時宗など)に向けられた日蓮の批判の刃は、この頃はとくに律宗と禅宗(→臨済宗・曹洞宗)に向けられ、さらに真言宗に及んでいます。

「念仏は無間地獄(むげんじごく)の業(ごう)、禅宗は天魔の所為(しょい)、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説なり」「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」

日蓮はこれを「四箇の格言」と高く掲げ、モンゴル(蒙古)を退けうるのは日本第一の法華経の行者、われをおいて他なし、と主張したといいます。尤も、幕府はそれに応えず、人心を惑わず罪人として1271(文永8)年に日蓮を佐渡に配流(→実際は佐渡守護・大仏北条宣時(おさらぎほうじょうのぶとき)館への「預かり」)しました。
【日蓮辻説法跡】
日蓮辻説法跡1

日蓮辻説法跡2

日蓮辻説法跡3

日蓮辻説法跡4

日蓮辻説法跡5

日蓮辻説法跡6

日蓮辻説法跡7



【鎌倉日蓮堂】
日蓮辻説法跡8

日蓮辻説法跡9

日蓮辻説法跡10

日蓮辻説法跡11


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↓↓龍ノ口法難と龍口寺


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コメント

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Re: 日蓮上人

>ミスミさん

コメントありがとうございます。質問は歓迎します。

ご指摘の通り忍性は北山十八間戸(→ハンセン病患者の救済施設)の創建や189ヶ所の橋と71ヶ所の道路を作るなど精力的な活動をしましたが、忍性をはじめとする律僧は、蒙古襲来のころ北条氏一門と深く結びつき特権階級に保護される宗派になっていました。日蓮の言葉を借りれば「布絹財宝を貯(たくわ)へ、利銭借請(しゃくじょう→高利貸し)を業とし」、「七道(→諸国)に木戸(→関所)を構えて銭をとりたて」、「飯島の津(→和賀江島)まで六浦(→横浜市金沢区)の関米を取る」、という側面がありました。

北条氏に関所を作ってもらい関銭(→通行税)の徴収を請け負い、高利貸しを営み法外な利息を取っていたという訳です。確かにそれらは忍性が力を注いだ貧民救済に充てられましたが、港・橋・道路の整備によって交通の便が良くなろうが、現実としてそれらの整備には貧民が使役されているので偽善である、という批判です。

「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言(しかかくげん)は、北条氏一門と結びつき受益者となった浄土宗・禅宗(→臨済宗)・真言律宗に対する批判(≒やっかみを包含)でもあったのでしょう。


日蓮上人

ご質問してもよろしいでしょうかe-3
日蓮上人はなぜハンセン病患者の救済や
橋・道路などの工事を行った忍性上人e-267まで
批判したのでしょうかe-451e-3
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