北条高時腹切りやぐら(神奈川県鎌倉市)を訪問しました2
南北朝時代の軍記物『太平記』には、1333(元弘3)年5月19日~5月21日までの鎌倉合戦をほとんど記していないのですが、鎌倉幕府滅亡の日となる5月22日については美談的な創作も含め、それなりに量を割いて記しています。
























極楽寺切通しを突破した新田義貞の軍勢と極楽寺坂への援軍として派遣された幕府方の長崎思元(ながさきしげん)の軍勢が小町口で遭遇して市街戦が始まったことで、市内は早朝から新田軍による放火・狼藉で混乱の極みにあったといいます。巳の刻(→午前10時頃)には、すでに幕府の最高権力者である得宗(→北条氏の家督)北条高時は得宗家小町邸(→現在の宝戒寺)から葛西ヶ谷(かさいがやつ)にある北条氏の菩提寺・東勝寺に移動し、戦局を悲観的に眺めています。東勝寺は滑川を堀とした城塞でもありました。
この間にも新田軍に囲まれた御内人(→得宗被官)のに)安藤聖秀(あんどうせいしゅう→新田義貞の妻の伯父)が新田義貞からの帰順勧告を拒んで自害し、御内人で幕府奉行人の塩飽聖遠(しあくせいえん)も敵軍に囲まれる中で教養人らしく禅宗漢詩文の辞世を読み自害するなど、高時との合流をあきらめ一族で自害する御内人が続出します。
幕府滅亡の元凶ともいわれる内管領(→得宗家公文所執事)長崎高資(ながさきたかすけ→長崎円喜の子)は、北条高時の最期を記した東勝寺の場面にも、高時のいる本隊と分断されて死んでいった人々の物語にも登場しません。幼少期の高時を意のままに操り影の執権とも言われた実力者の最期の姿を誰も見ていない、誰にも認識されていないところに乱戦のリアリティを感じます。
北条高時を守る本隊は滑川を最後の防衛戦として幕府の首脳部が自害をする時間かせぎをしますが、滑川の西側では思い思いの最期を遂げようとする人たちが、郎党たちに館を守らせながら自らは主君高時が自害する前に自害して果てたため、西側の防衛戦を突破した新田軍が滑川の断崖をよじ登り東勝寺に迫ったことが分かります。
夕刻、主従150騎で八面六臂の活躍をしていた御内人の長崎高重(→長崎円喜の孫、高資の子)が手勢の大半を討たれて東勝寺に戻ったとき、北条高時以下一門の人々が自害を始める合図となりました。この時、金沢北条氏が治める六浦荘(→神奈川県横浜市金沢区六浦)への脱出ルートは幕府方が押さえていましたが、北条高時は鎌倉を最期の地と思い定め、六浦荘での再起は考えなかったようです。高時は病弱で気力には乏しい文人ですが決して暗愚ではなく、鎌倉幕府を率いる者の矜持を持っていたことが分かります。
『太平記』は、長崎高重が先駆けとしてまず腹を切り、それに続いて北条高時・安達時顕(→あだちときあき→高時の外戚)が自害し、その姿を見届けた金沢北条貞顕(かねさわほうじょうさだあき→15代執権)・普恩寺北条基時(ふおんじほうじょうもととき→13代執権)以下の北条氏一門・安達氏一門・幕府高官・御内人(→得宗被官)が次々と自害していったと伝えます。『太平記』は遺骸を数えたところ837人と記しています。100万とか80万とか誇張した数字の多い『太平記』ですが、837人という数字には真実味があります。
東勝寺に集まり、郎党たちに守らせている間に自害した人々の多さは、北条高時が部下の心を失っていなかったことを示しています。5日間に及ぶ鎌倉合戦で多くの武士が鎌倉を守るために死んでいき、守るべき武士が底をついたことによって鎌倉は陥落したと言えます。
【北条高時腹切りやぐら】








【北条高時以下北条氏一門の墓(供養塔)】









【東勝寺跡】






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↓↓北条高時と金龍山 釈満院 円頓宝戒寺
↓↓徳崇大権現会・大般若経転読会2018(平成30)年


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コメント
Re: また質問があります('ω')ノ
>なおさん
コメントありがとうございます。質問は歓迎します。
『太平記』の作者が盛り上げるために創作した逸話だと推察されます。そもそも新田義貞は稲村ヶ崎の波打際を通っていないのです。南の海岸線の戦いは、初日の5月18日に新田軍の総大将大舘宗氏(おおだてむねうじ)が稲村ヶ崎を突破して前浜まで進んだものの、駆けつけてきた幕府方の本間山城左衛門(ほんまやましろさえもん)の軍勢と浜でぶつかり、追撃してきた大仏北条貞直(おさらぎほうじょうさなだお)の本隊に挟撃され、大舘勢は宗氏が戦死して壊滅しました。
宗氏戦死を聞いた新田義貞が主力を極楽寺切通しに移したため、鎌倉合戦の帰趨は極楽寺切通しと稲村ヶ崎に挟まれた丘陵上(→霊山)にある極楽寺の子院仏法寺をめぐる攻防となりました。新田方も北条方もこの仏法寺めぐる戦い多くの死傷者を出しますが、それぞれ駆けつけてきた人々を増援として投入したので、死闘が繰り返されました。5月21日夜から翌22日朝にかけての合戦で大仏北条貞直の軍勢がついに底をつき、仏法寺を突破した新田軍はついに鎌倉市中に乱入したというのが「稲村ケ崎の戦い」の真相のようです。
2023-02-02 10:22 副会長 西住りほ URL 編集
また質問があります('ω')ノ
剣を海に投げたら潮
本当にあったのでしょうか
引き潮とか満ち潮とかチェックしてそうですが、、
2023-02-02 09:46 なお URL 編集