別願寺・足利持氏の墓(神奈川県鎌倉市)を訪問しました
稲荷山 超世院 別願寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、創建年代は不詳ですが、「能成寺」という名の真言宗寺院として鎌倉時代前期には創建されていたと伝わります。公忍が住職の時に、踊念仏(おどりねんぶつ)で有名な時宗の開祖一遍に帰依し、1282(弘安5)年に宗派を時宗に改め、寺号を「別願寺」としたと記されます。
1282(弘安5)年は2度目の蒙古襲来(→弘安の役)に勝利した翌年にあたり、寺社の恩賞問題は御家人の恩賞と並び幕府の喫緊の課題となりました。同年12月28日、常陸の鹿島社(→茨城県鹿嶋市宮中)に同国大賀村を調伏祈禱の恩賞として寄進していますが、これが公安の役後の寺社への所領寄進の初見となります。この間、各宗派はこぞって自らが祀る神仏がいかに勝利に貢献したかを縁起や絵巻物という形で創作し、幕府に過分な恩賞を要求しました。
室町時代になると別願寺は鎌倉公方足利氏の保護を受け、初代鎌倉公方足利基氏(もとうじ→母は北条守時の妹)・2代氏満(うじみつ)・3代満兼(みつかね)の菩提寺となりました。現在、境内には6代将軍足利義教(よりのり)と対立し、1438(永享10)年8月~翌年2月の永享の乱で滅ぼされた4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)の供養塔が残されています。ただし、供養塔には「永享十一年(→1439年)二月十一日」と彫られており、これは足利持氏が自害した翌日にあたり、まだ葬儀も行われておりません。供養塔を作り追善供養を行った際に日付が調整されたものと思われます。
別願寺は、江戸時代には本山・末寺の制により時宗総本山の藤沢山 無量光院 清浄光寺(いゆゆる遊行寺→神奈川県藤沢市西富1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。
別願寺は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡大町村の条に次のように記されています。
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大町村
別願寺
名越町にあり、稲荷山超世院と号す、時宗、藤沢清浄光寺末、本尊弥陀を置く、銅仏立像二尺二寸(→約64cm)、佐竹稲村の神作と云(い)ふ、往昔は真言宗にて能成寺と云(い)ひしとぞ、起立年代、開山等詳(つまびらか)ならず、弘安五年(鎌倉時代中期→1282年)五月遊行始祖一遍廻国の時、住僧公忍故有(ゆえあり)て改宗し、即(すなわち)一遍弟子となり、今の寺院号に改め名をも覚阿と改む故に此僧を開基と称す。
永徳二年(南北朝時代→1382年)十月管領(→鎌倉公方の誤記、以下同じ)氏満先管領基氏菩提の為、下総国相馬御厨(そうまみくりや)内、横須賀村を寄附す、明徳二年(南北朝時代→1391年)九月氏満下野国薬師寺庄半分を当寺領に寄附す、応永七年(室町時代前期→1400年)九月先の寺領地を当寺に渡すべき旨上杉朝宗入道禅定より結城弾正少弼入道に命を伝へし事あり。
十二月管領満兼に至りて同所を又氏満菩提のため更に寄附の命あり、十三年(→1406年)五月満兼名越報恩寺敷地山林等を当寺領に寄附す、廿二年(→1415年)十二月管領持氏総野二州の寺領地先規に任せ寄附の命を下す、廿七年(→1420年)二月持氏当寺門前畠を満兼菩提の為に寄附す。
天文廿二年(戦国時代中期→1553年)十一月小田原北条氏(→北条氏康)棟別銭を免許す、永禄九年(→1566年)八月北条氏の臣大道寺駿河守政繁敷地を寄附せり、今寺領二貫五百六十文の御朱印(→徳川家康の安堵)は天正十九年(安土桃山時代後期→1591年)に賜へり。
寺宝
△阿弥陀仏一幅、行基筆 △足利系図一巻 △当寺古図一枚、文和二年(南北朝時代→1353年)四月十一日とあり △縁起一巻
足利持氏墓
本堂の西にあり、五輪塔にて長春院殿其阿弥陀仏、永享十一年二月十一日(→1439年、足利持氏が自害した翌日)と彫る、持氏追福の為後に建てたるものか来由詳(つまびらか)ならず。
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【別願寺の山門】


【別願寺の本堂】







【別願寺の内陣】




【別願寺の境内】





【足利持氏の墓(供養塔)】
御霊信仰から四方に鳥居の浮彫が施されており、中世の人々の「怨霊封じ」の思想がみてとれます。








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↓↓本山であった藤沢山 無量光院 清浄光寺➀
↓↓踊念仏と一向俊聖について
↓↓室町将軍と鎌倉公方の対立について(コメントで解説)


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