山田神社(神奈川県横浜市都筑区)を訪問しました
山田神社(→神奈川県横浜市都筑区南山田町)は、室町時代中期の1445(文安5)年に創建したと伝わる妙見社を前身とする神社で、明治時代後期の1910(明治43)年、国の一村一社政策を受けて近郷の諏訪社、神明社、稲荷十社、八幡社、熱田社、熊野社、第六天社など21社を合祀し、山田神社と改称されました。
合祀された1つの諏訪神社は平安時代前期の860(貞観2)年の創建と伝わる古社で、本殿横には別当寺(神宮寺)の名残りと推察される鐘楼と梵鐘が残り、参道の地蔵群とともに神仏習合の歴史を垣間見れる神社といえます。
江戸時代には、妙見社・神明社・稲荷十社(うち8社)など14社は妙見山 不動院 長泉寺(→神奈川県横浜市都筑区北山田7丁目)が、諏方社・稲荷十社(うち2社)など7社は諏訪山 観音寺(→神奈川県横浜市都筑区東山田4丁目)が別当寺として祭祀を司りました。
〖祭神〗
・大日孁貴(おおひるめのむち)→天照大神のこと
〖境内社〗
・稲荷大明神
山田神社は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡山田村の条に、合祀前の各神社について次のように記されています。
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山田村
神明社
除地(→諸税が免除された土地)、四畝許(ばかり)、村の坤の方村界があり、大門六十間ばかり、両側に松の並木ありて鳥居を立つ、本社は小社にて二間に三間の拝殿を造(つくり)添へり、例祭は年々八月二十日、九月二十一日の両度に祭れり、神体は木の立像にて長(ながさ)一寸五分(→約4.5cm)、村内長泉寺の持(もち)なり、以下十二社ともに同寺(→長泉寺)の持なり。
妙見社(→山田神社の母体)
除地、二町歩、村の南中原新道にあり、大門二丁ばかりありて、石階の下に石の鳥居を立(たて)、本社は僅(わずか)に五尺余に七尺余、幣殿二間に四間、拝殿六間に三間を造(つくり)添へり、例祭は四月六日、九月二十六日の両度なり、神体は立像にて長(ながさ)一尺(→約30cm)ばかり、いと古仏なり、当社に元亀三年(戦国時代後期→1573)年九月二十二日、石井惣□野□栗原などしるせし棟札あり、其外(そのほか)は文字うせて分明ならず、又一枚は元和三年(江戸時代前期→1617年)六月六日とあり、下に名主職□藤左衛門、高野源左衛門、名主八木豊後守、大嶋八左衛門(→いずれも小田原北条氏の旧臣と推察)などとあり、いかにも社地古きさまにて老松繁茂せり、社前に石の二王を置く、寛文(江戸時代前期→1661年~1673年)の銘を刻めり、傍に草庵を設く、これ宮守の居る所なり。
八幡社
除地、四畝、村の南にあり。
熱田社
除地、一畝、同(おなじ)く南の方にあり。
熊野社
除地、一畝、西の方にあり。
子ノ神社
除地、北の方にあり。
稲荷十社
村内所々にあり、小祠にしてわづかづつの除地あり、そのうち二社は村内観音寺持(もち)。
諏訪社
見捨地(→検地対象外の土地)、二町七段五畝歩、村の北にあり、此外(このほか)社地免四段ばかりは地頭河野伴右衛門寄附せり、神体は束帯の坐像にて、冠の上に蛇の蟠(とぐろまき)たるを頂きたる状なり、例祭は八月二十日、九月二十六日の両度にあり、観音寺の持(もち)、以下四社同寺(→観音寺)の持なり。
第六天社
除地、四坪、字徳持谷にあり。
八幡社
除地、一畝、徳持谷にあり、上屋七尺四方、神体束帯の立像にて長(ながさ)六寸(→約18cm)許(ばかり)、此処を土人(→土地の人)呼(よび)て八幡山と云(いう)。
子神社
除地、一畝、字権現堂にあり。
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【山田神社の一の鳥居】






【山田神社の地蔵群】





【山田神社の参道】
















【山田神社の拝殿】












【山田神社の梵鐘】







【山田神社の境内社(稲荷大明神)】





【山田神社の神池道】



【山田神社の境内】












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↓↓別当寺を務めた妙見山 不動院 長泉寺


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