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永勝寺(神奈川県藤沢市)を訪問しました

法谷山 瑞祥院 永勝寺(→神奈川県藤沢市本町4丁目)は、鎌倉時代前期の1232(貞永元)年に浄土真宗の開祖親鸞(しんらん)の真弟(→仏法上の後継者)である誓海が開基となり鎌倉常盤村に創建した常盤道場を前身とする浄土真宗本願寺派(西本願寺派)寺院です。常盤村には当時の執権北条泰時(→3代執権)の異母弟・政村(→のちの7代執権)の別邸(→常盤亭)があり、周辺には多くの寺社が建立されました。

1333(元弘3)年5月18日~22日の鎌倉合戦(→鎌倉幕府滅亡時の市街戦)で堂宇が焼失し、その後も戦乱や自然災害で転々と遷山を繰り返すことになり、江戸時代前期(→5代将軍徳川綱吉の頃)の1691(元禄4)年に、10代住職真海が現在地に移転、寺号を永勝寺に改めました。

境内には江戸時代に藤沢宿で飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵と、そこで働いていた飯盛女の墓石があります。山門に「飯盛女」についての説明板があり、次のように記されています。

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墓地の中に飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵の墓があります。飯盛女の墓はこの源蔵が建てたものです。三十九基の墓石には四十八体の法名が刻まれていて五体は男です。飯盛女のいる旅籠は繁昌しました。藤沢宿には旅籠が四十九軒あり、このうち飯盛女をかかえたのは二十七軒ありました。一軒に二人ずつ置かれました。

飯盛女は近くの農村や他国からも両親の借金の代償として、なかば売られて藤沢宿に来たのです。旅人の世話や食事の給仕だけでなく男たちの相手にもなりました。飯盛女として悲しい一生を終えたのです。
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永勝寺は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』高座郡坂戸町の条に次のように記されています。

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坂戸町
永勝寺
法谷山瑞祥院と号す、一向宗京西六条本願寺末、元禄四年(→1691年)真海起立す、本尊阿弥陀を安ず。

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【永勝寺の山門】
永勝寺の山門1

永勝寺の山門2

永勝寺の山門3

永勝寺の山門4

永勝寺の山門5



【永勝寺の本堂】
永勝寺の本堂1

永勝寺の本堂2

永勝寺の本堂3

永勝寺の本堂4

永勝寺の本堂5

永勝寺の本堂8

永勝寺の本堂7



【「飯盛女」の墓】
藤沢市教育委員会掲示には以下のように記されています。

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飯盛女とは江戸時代、宿場の旅籠屋(はたごや→旅館)で給仕をする女として公認されていたが、遊女としての側面ももっていた。藤沢宿大鋸町では、飯盛女のいない宿場がさびれたため、万延二年(一八六一)宿民のためとして一旅籠屋二名の飯盛女を置く許可を役人から得ている。

永勝寺に眠る小松屋の抱えた飯盛女(→ほとんどが初代小松屋源蔵の出身地の伊豆国小松村出身)の墓は三十九基あり、内三十八基が宝暦一一年(一七六一)から享和元年(一八〇一)まで、小松屋の墓域に建てられている。このように供養された者は少なく、借金の形まで苦界の中で身を沈めた者が多い中、小松屋の温情がしのばれる。
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永勝寺の飯盛女の墓1

永勝寺の飯盛女の墓2

永勝寺の飯盛女の墓3

永勝寺の飯盛女の墓4

永勝寺の飯盛女の墓6

永勝寺の飯盛女の墓7

永勝寺の飯盛女の墓8

永勝寺の飯盛女の墓9



【永勝寺の太子堂】
永勝寺の太子堂1

永勝寺の太子堂2

永勝寺の太子堂3

永勝寺の太子堂4



【永勝寺の鐘楼】
永勝寺の鐘楼1

永勝寺の鐘楼2

永勝寺の鐘楼3

永勝寺の鐘楼4



【永勝寺の境内】
永勝寺の境内3

永勝寺の境内1

永勝寺の境内2

永勝寺の境内4

永勝寺の境内5

永勝寺の境内6


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