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清浄光寺(神奈川県藤沢市)を訪問しました➀

遊行寺(ゆぎょうじ)の名で知られる藤沢山 無量光院 清浄光寺(しょうじょうこうじ→神奈川県藤沢市西富1丁目)は、鎌倉時代後期の1324(正中元)年に鎌倉郡俣野の領主であった俣野景平(またのかげひら)が開基、時宗(じしゅう)の遊行四世の呑海(どんかい→俣野景平の兄弟)が開山した時宗総本山です。「遊行〇世」とは開祖一遍の教え(→遊行)を相承した、時宗でトップの地位にある高僧を指します。

1324(正中元)年の鎌倉幕府は14代執権北条高時政権で、清浄光寺の周辺には得宗被官(→北条氏嫡流の家来、御内人とも)の所領が点在していました。境内には1333(元弘3)年5月18日~22日の鎌倉合戦で北条氏に殉じた御内人(→得宗被官)の南部茂時(なんぶしげとき)の墓があります。


清浄光寺は、南北朝時代の1356(延文元)年までは藤沢山 清浄光院といいましたが、同年足利尊氏(→室町幕府初代将軍)が寺領6万貫を寄附して堂宇を再建した際、現在の寺号に改めたようです。その際、足利氏が擁立する北朝の後光厳天皇(→北朝4代目)から直筆の扁額が清浄光寺に贈られました。もちろん、足利尊氏からの要請があり、それに応じたものと推察されます。

室町時代前期の応永年間(→1394年~1428年)に火災で本堂を焼失しますが、関東管領・上総及び武蔵国守護の上杉朝宗が私財を投じて再建したといいます。さらに、1396(応永3)年に遊行11世の自空(→清浄光寺6代住職)が入京して京都御所に参内した際には、後小松天皇から遊行で諸国を巡る際にかかる費用の免除を約束されるなど、朝廷や室町幕府から手厚い保護を受けました。

戦国時代の1571(元亀2)年には、同年に北条氏康との同盟(→甲相同盟)を復活させた武田信玄から寺領300貫文(→藤沢に200貫、俣野に100貫)の寄附を受けています。書状に「関東静鑑之上」とあるので同盟復活を喜ぶ信玄の心情が窺えます。


清浄光寺は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡大鋸町の条に次のように記されていますが、非常に長いので創建に関する箇所のうち、鎌倉時代から室町時代の期間のみを掲載します。

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大鋸町
清浄光寺
藤沢山無量光院と号す、時宗の総本山にて藤沢道場と唱ふ、此地(このち)東西四町南北六町許(ばかり)の際(きわ)、藤沢山と囲称して自然別区の如(ごと)し、遊行歴代譜に拠るに開山呑海は遊行四世の僧なり、二世、他阿真教の弟子にて俣野氏なり、初(はじめ)有阿恵永と号す、遊行する事七年、嘉暦二年(鎌倉時代後期→1327年)二月十八日当山にて寂す、齢(よわい)六十三、正中二年(→1324年)寺伝は元年(→1323年)と云う、極楽廃寺跡に当寺を創す、開基は俣野五郎景平入道明阿なり、呑海の兄弟と云う、貞和元年(南北朝時代→1345年)十月十七日寂す、或(あるい)は当寺宗祖一遍の剏立(→創立)と云う説あれどあたらず。当国(→相模国)にて一遍駐錫(ちゅうしゃく→滞在)の地は高座郡当麻無量光寺(→神奈川県相模原市南区当麻)なり、一遍は全く遊行の始祖にて当寺開山呑海は遊行を相承して、其(その)四世の法嗣たり、当山の四世にはあらず。

当山三世一鎮、遊行六世、文和四年(南北朝時代→1355年)十二月廿二日寂すが時、延文中(→1356年~1361年)将軍尊氏(→室町幕府初代将軍足利尊氏)堂宇を再造し、寺領六万貫を寄附あり、此頃迄は清浄光院と号せし、【「菟玖波集」(つくばしゅう→南北朝時代に編纂された准勅撰連歌集)にも藤沢の清浄光院にまかりて連歌し侍(はべ)りける云々(うんぬん)と見え、延文元年(→1356年)の鐘銘にも、院と記せり】が、是より寺号に改め、院を無量光院と号す時に後光厳帝(→北朝の後光厳天皇)宸筆(しんぴつ→天皇の直筆)の扁額を賜ふ。

当山六世自空、遊行十一世応永十九年(室町時代前期→1412年)三月十一日寂すが時、回禄(→火災)に罹(かか)り、後(のち)堂宇再興成(なり)て客殿は上杉中務少輔朝宗財を捨て再造せしとぞ、是応永(→1394年~1428年)中の事なり、遊行十二世尊観法親王(→亀山天皇の孫)と申せしは後村上帝(→南朝・後村上天皇)の御猶子(→相続権のない後継者)たり。

嘉慶元年(南北朝時代→1387年)二月自空が譲与を承け、遊行する事十年にして応永三年(室町時代前期→1396年)の秋京に入し序参内(さんだい→皇居に参上すること)ありしに巡国化益の事肇(はじめ)て後小松帝(→南北朝合体の後小松天皇)の叡聞(えいぶん→天皇の耳に入ること)に達せしかば巡業の国々にて止宿夫馬等(→交通費・宿泊費など)の事なく計(はから)ふべき旨、京都将軍(→4代将軍足利義持)に勅命を下さる、即(すなわち)斯波宜将(しばのぶまさ→管領)奉はりて各国の守護に下知す、是遊行僧夫馬の印状を賜はる濫觴(らんしょう→物の始まり)なり、当山発生大空、遊行十四世、永享十一年(→1439年)十一月十四日寂す、遊行道々観奉はりて国々へ下知を伝ふ、此時三井寺(みいでら→滋賀県大津市園城寺町)の闕所(けっしょ)勘過の事も下知あり、

………(以下、省略)………

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【遊行寺橋】
遊行寺橋1

遊行寺橋2



【清浄光寺の惣門】
清浄光寺の惣門1

清浄光寺の惣門2

清浄光寺の惣門3

清浄光寺の惣門4



【清浄光寺の青銅製燈籠】
清浄光寺の燈籠2

清浄光寺の燈籠1



【清浄光寺のいろは坂】
清浄光寺のいろは坂1



【清浄光寺の本堂】
清浄光寺の本堂1

清浄光寺の本堂3

清浄光寺の本堂4

清浄光寺の本堂10

清浄光寺の本堂11

清浄光寺の本堂6

清浄光寺の本堂7

清浄光寺の本堂8

清浄光寺の本堂9



【清浄光寺の内陣】
清浄光寺の内陣1

清浄光寺の内陣2

清浄光寺の内陣3



【清浄光寺の地蔵堂】
清浄光寺の地蔵堂1

清浄光寺の地蔵堂2

清浄光寺の地蔵堂7

清浄光寺の地蔵堂3

清浄光寺の地蔵堂4

清浄光寺の地蔵堂6



【清浄光寺の一遍像】
清浄光寺の一遍像1

清浄光寺の一遍像2



【御内人(得宗被官) 南部茂時の墓】
南部茂時の墓1

南部茂時の墓2

南部茂時の墓3

南部茂時の墓4

南部茂時の墓6



【清浄光寺の鐘楼】
清浄光寺の鐘楼1

清浄光寺の鐘楼2

清浄光寺の鐘楼3



【清浄光寺の俣野大権現社】
清浄光寺の俣野大権現社1

清浄光寺の俣野大権現社3

清浄光寺の俣野大権現社4

清浄光寺の俣野大権現社2



【清浄光寺の中雀門】
清浄光寺の中雀門2

清浄光寺の中雀門3

清浄光寺の中雀門1



【清浄光寺の御番方】
清浄光寺の境内1

清浄光寺の境内2



【清浄光寺の放生池】
清浄光寺の放生池1

清浄光寺の放生池2

清浄光寺の放生池3

清浄光寺の放生池4



【清浄光寺の坂井忠重五輪塔・逆修六地蔵】
清浄光寺の石造群1

清浄光寺の石造群2

清浄光寺の石造群4

清浄光寺の石造群3



【清浄光寺の敵御方(てきみかた)供養塔】
室町時代中期の1416(応永23)年におきた上杉禅秀の乱(→鎌倉公方足利持氏と対立した前関東管領上杉禅秀がおこしたが敗死した)における、足利方・上杉方の双方の供養塔。石碑建立の施主は勝利した足利持氏で、「怨親平等碑」とも呼ばれる。

清浄光寺の敵御方供養塔



【清浄光寺の境内】
清浄光寺の境内6

清浄光寺の境内7

清浄光寺の境内8

清浄光寺の境内9

清浄光寺の境内10

清浄光寺の石造群5

清浄光寺の石造群6

清浄光寺の石造群7

清浄光寺の石造群10

清浄光寺の石造群9

清浄光寺の境内3

清浄光寺の境内4

清浄光寺の境内5

清浄光寺の境内6


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↓↓清浄光寺の境内社・塔頭寺院、藤沢宿高札場について

↓↓末寺であった稲荷山 超世院 別願寺

↓↓同時期に踊念仏を広めた一向俊聖


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