清浄光寺(神奈川県藤沢市)を訪問しました➁
遊行寺(ゆぎょうじ)の名で知られる藤沢山 無量光院 清浄光寺(→神奈川県藤沢市西富1丁目)は鎌倉時代後期の1324(正中元)年に創建された時宗総本山です。境内には松平氏(徳川氏)の始祖とされる得川有親(とくがわありちか)の守り本尊を祀る宇賀神社や、真徳寺・真浄院・長生院(ちょうしょういん)という塔頭寺院(たっちゅうじいん→大寺院にある小寺院)があります。
室町時代前期の1438(永享10)年8月~翌年2月の永享の乱において、得川有親は長男親氏(ちかうじ)・次男泰親(やすちか)とともに鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)に味方して幕府軍に敗れたため、残党狩りで信濃国浪合村(→長野県下伊那郡阿智村)で戦死したとも、相模で出家して遊行僧(→放浪僧とも)となり信濃経由で三河へ流れついたとも伝わります。記録が曖昧なのは裏を返せば実在性に疑問がある、あるいは記録に残らない程の人物であった、徳川将軍家の権威づけのために後付けで創作された、などの理由が考えられます。
清浄光寺の寺伝では、有親・親氏父子は遊行12世尊観の弟子となり、有親は徳阿弥(とくあみ)、長男親氏は長阿弥(ちょうあみ)、次男泰親は独阿弥(どくあみ)と名を改めたと記されます。そして、次男独阿弥が三河国の東照山 称名寺(→愛知県碧南市築山町2丁目)に移るとき、清浄光寺に父の守り本尊である宇賀弁財天を奉納し、宇賀神社を創建したといいます。
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【清浄光寺の境内社(宇賀神社)】
江戸時代後期の1764(寛政6)年11月の火災で社殿を焼失しますが、江戸幕府から再建費用として白銀30枚をもらい受けたと記されます。天保年間(→1830年~1844年)にも同様の援助があったようです。しかし、1880(明治13)年にも火災で焼失し、現在の社殿はその後再建されたものになります。訪問した際は境内を改修していました。




【清浄光寺の塔頭(真徳寺)】
鎌倉北条氏の別邸より赤門を寄附されて以来、門を朱色にする習わしになったといいます。もとは真光院・栖徳院・善徳院・貞徳院という別々の塔頭寺院でしたが、太平洋戦争後期の1944(昭和19)年に4院を合併して真徳寺と改称したようです。













【清浄光寺の塔頭(真浄院)】
清浄光寺と同じく鎌倉時代後期の1325(正中2)年に遊行四世の呑海(どんかい→俣野景平の兄弟)が創建した塔頭寺院と伝わりますが、明治時代前期の1880(明治13)年11月26日の火災で記録が失われたようです。












【清浄光寺の塔頭(長生院)】
室町時代前期の1429(永享元)年に閻魔堂(えんまどう→閻魔大王像を祀る堂宇)として創建された塔頭寺院で、「小栗堂」とも呼ばれています。安土桃山時代と明治時代には火災により、1923(大正12)年9月1日には関東大震災により、それぞれ本堂を失っています。現在の本堂は1991(平成3)年に落成しました。
境内には、中世以降に伝承され人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にもなっている小栗判官主従と照手姫(→小栗判官の妻)の墓の他、小栗判官伝説関連の文化財や宝物として照姫持仏正観音・照姫姿見古鏡・鬼鹿毛馬轡・鬼鹿毛馬鐙が残されています。ただし、文学作品上の小栗判官主従と照手姫は創作による人物像です。
室町時代の1422(応永29)年に小栗満重(おぐりみつしげ)が、謀叛の疑いで居城の常陸小栗城(ひたちおぐりじょう→茨城県筑西市小栗)を鎌倉公方足利持氏(もちうじ)に攻め落とされた際、子の助重(すけしげ→小栗判官)が家臣10人とともに三河国(→愛知県東部)へ落ち延びる途中、この藤沢で横山太郎と名乗る者に殺されかけました。
このとき、遊女の照手が助重らを逃がし、一行は遊行14世太空に助けられたと伝わります。その後、家名を再興した助重は照手(照手姫)を妻に迎え、清浄光寺の八徳池の傍らに長生院を建立し、父満重と家臣10人の墓をつくったようです。助重の死後、照手姫は出家して長生尼と名乗り、助重と家臣10人(→十勇士と称えられる)の墓を守ったと伝わります。











【小栗判官・十勇士の墓】







【照手姫の墓】

【長生院の境内】





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〖近くの藤沢宿高札場跡〗







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↓↓藤沢山 無量光院 清浄光寺(遊行寺)について
↓↓稲荷山 超世院 別願寺と足利持氏の供養塔


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