二子神社(神奈川県川崎市高津区)を訪問しました
二子神社(ふたこじんじゃ→神奈川県川崎市高津区二子1丁目)は、江戸時代前期の1641(寛永18)年に、甲斐武田氏(→1582年3月11日滅亡)の有力国衆であった郡内小山田氏(→1582年3月24日滅亡)の一族で、この地で帰農した小山田兵部(おやまだひょうぶ→名前は不明)が創建したと伝わる神社です。
1590(天正18)年7月に小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東入封を果たすと甲斐武田氏の一族や旧臣は徳川氏に取りたてられたり、あるいは帰農して名主となるなど、新しい領主である徳川氏の領国経営に関わる者が見られます。
その際、川崎市麻生区・多摩区・高津区(→稲毛領が中心)で知行を得た者、あるいは帰農して住み着いた者がおり、高石神社(→神奈川県川崎市麻生区高石)、登戸稲荷神社(→神奈川県川崎市多摩区登戸)、大非山 光明寺(→神奈川県川崎市高津区二子1丁目)など、武田氏の一族や旧臣が創建した寺社として知られます。
二子神社は、江戸時代までは大悲山 光明寺(→神奈川県川崎市高津区二子1丁目)が別当寺として祭祀を司り、明治維新後に村社となり、大正時代末期の1926(大正15)年に神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)となり、勅令に基づいて神奈川県知事から例祭などの神饌幣帛料(→金銭)が贈られるようになりました。現在は日本国憲法の政教分離の原則に基づき、「幣帛料」は知事からではなく神社本庁から贈られます。余談ですが、これらは毎年神社本庁に上納金を納めている本庁管轄下の神社に限られます。
〖祭神〗
・天照大神(あまてらすおおみかみ)
〖境内社〗
・出世稲荷社
二子神社は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡二子村の条に「神明社」として次のように記されています。
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二子村
神明社
村の北の方にあり、鳥居を建つ拝殿二間に三間、本社三間四方南に向(むく)、例祭八月十日、宮内村常楽寺(→神奈川県神社庁によると大悲山 光明寺の誤記という)持(もち)。
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【二子神社の参道】

【二子神社の鳥居】


【二子神社の社殿】





【二子神社の境内社(出世稲荷社)】







【二子神社の境内】





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〖岡本かの子文学碑「誇り」〗
岡本かの子は、1889(明治22)年3月1日に旧二子村の旧家・大貫家に生まれ、与謝野晶子(よさのあきこ)に師事して『明星』『スバル』などに短歌を発表した歌人です。白いモダンアートの記念碑は「誇り」と名付けられ、かの子の長男で世界的な知名度を誇る美術家岡本太郎の作で1962(昭和37)年秋に完成しました。碑には「としとしにわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり」という短歌がかの子の筆跡から拾字された御影石に刻まれています。






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↓↓天童山 景徳院と武田勝頼公一族の墓
↓↓郡内小山田氏の居城の1つである岩殿城
↓↓甲斐武田一族の加賀美正吉が創建した高石神社
↓↓武田氏旧臣の吉沢兵庫が創建した登戸稲荷神社
↓↓武田氏旧臣の小山田宗光が創建した大悲山 光明寺
↓↓武田氏旧臣が加わった八王子千人同心


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