光明寺(神奈川県川崎市高津区)を訪問しました
大悲山 光明寺(→神奈川県川崎市高津区二子1丁目)は、戦国時代の1571(元亀2)年に僧の専造坊が二子塚に創建した天台宗寺院を前身とする浄土真宗大谷派寺院です。『川崎市史』の光明寺縁起によると、甲斐武田氏の有力国衆で、武田氏滅亡ののち織田信忠(→織田信長の嫡男)によって滅ぼされた郡内小山田氏の一族小山田宗光(おやまだむねみつ)が専浄と称し庵を結んだと記されます。
武田氏や小山田氏の一族・遺臣がこの辺りに移住するのは1590(天正18)年8月の徳川家康の江戸入り以降になります。「庵を結んだ」とあるので小山田宗光(専浄)が二子村に住みついた頃には前身となる寺院は、小田原北条氏の滅亡にともない寺領を保護する領主が不在となり没落していたのでしょう。
1600(慶長5)年、関東にやってきた本願寺教如(→浄土真宗大谷派十二世)に教化され、翌年天台宗から浄土真宗大谷派に改宗したようです。1669(寛文9)年には幕府(→4代将軍徳川家綱の頃)の命で二子塚から現在地に移されました。
光明寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡二子村の条に次のように記されています。
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二子村
光明寺
村の中程街道(→大山街道)の内にあり、浄土真宗にて相模国大住郡岡田村長徳寺末、大悲山と号す、此寺(このてら)古(いにしえ)は天台宗なりし由、其頃(そのころ)は村の南の方にありて、二子塚も其(その)境内にあり、元亀二年(→1571年)専造坊といへるもの当宗を開基せりと、此僧(このそう)文禄三年(安土桃山時代後期→1594年)十二月六日寂す、其後(そのご)何(いずれ)の頃か今の所に移りたれども、二子塚の内一(ひとつ)は当寺の持(もち)なりと云(いう)、此余(このほか)の事記録を失ひたれば詳(つまびらか)にしたがし、客殿六間四方巽(たつみ→東南)に向ふ、本尊弥陀の立像にて長(ながさ)一尺五寸(→約45cm)作しれず。
鐘楼
門を入て左の方にあり、二間四方鐘の円径三尺(→約90cm)許(ばかり)、宝暦十二年(江戸時代後期→1762年)鋳しものなり。
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【光明寺の山門】






【光明寺の本堂】






【光明寺の内陣】



【光明寺の鐘楼】




【光明寺の境内】




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〖近くの大貫家の人々碑〗



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↓↓別当寺として祭祀を司った二子神社


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