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二枚橋(神奈川県川崎市麻生区)を訪問しました

二枚橋(→神奈川県川崎市麻生区高石3丁目)は、源義経が作り直したという伝承をもつ多摩川水系の五反田川にかかる橋です。

川崎市に残る義経伝説をつなげてみると、義経主従は1180(治承4)年9月に藤原秀衡(ふじわらのひでひら)から与えられた軍勢を率いて奥州平泉(→岩手県西磐井郡平泉町)を発ち、鎌倉街道を南下して仙石山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)で戦勝祈願をし、五反田川を越える際に軍勢が通れるように橋を補強(→二枚橋)し、弘法松の先にある「弁慶鍋ころがし」(→神奈川県川崎市麻生区百合丘3丁目)として知られる細い尾根道を通り、家来の所領がある古沢地区(→神奈川県川崎市麻生区古沢、九郎明神社の辺り)で一夜を過ごし、10月21日に黄瀬川宿(→静岡県駿東郡清水八幡)で源頼朝(→義経の異母兄)と対面を果たした、ということになります。

さらに1185(文治元)年、源義経武蔵坊弁慶主従は仙谷山 寿福寺に大般若経を奉納し、それらが寺宝として伝わりますが、奉納の時期が壇の浦合戦の前なのか後なのか、それとも頼朝と不和になった頃なのか、または頼朝への挙兵に失敗して謀叛人として追討を受ける立場になった頃なのか、1185(寿永4・文治元)年は義経にとって激動の年であり、判然としません。

これらの伝承がそのまま史実であるかは定かではありませんが、この地域の鎌倉街道を義経主従が通ったことは確かなようです。高石町会の説明版には二枚橋について次のように記されています。

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治承四年(一一八〇年)の秋、源頼朝が平家を滅ぼそうと旗上げをした折に、弟の義経が奥州の平泉から弁慶伊勢の三郎駿河の次郎たちを従えてかけつける途中にここを通りかかり当時の橋が粗末なものであったので、弁慶たちが馬も通れる橋に造りなおした。その橋は丸木を並べた上に土を盛ってあり、横から見るとのし餅を二枚重ねたように見えるので二枚橋と名付けられた、といういい伝えが残っている。
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【二枚橋】
二枚橋9

二枚橋0

二枚橋1

二枚橋2丁目

二枚橋4

二枚橋5

二枚橋6

二枚橋3

二枚橋8



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〖細王舎跡〗
二枚橋の近くの津久井道「高石歩道橋下」交差点の角には、農機具メーカー「細王舎」工場跡地を示す石碑(→神奈川県川崎市麻生区高石3丁目)が建てられています。工場があった場所には、今はガソリンスタンドとマンションが建っています。

細王舎は大日本帝国憲法が発布された1889(明治22)年、箕輪政次郎によって創建され、細山地区にて養蚕機械器具の発明改良製作に着手し、事業発展とともに石碑の立つ地に移りました。2代目の箕輪亥作の頃には神奈川を代表する農機具メーカーに発展し、大正時代初期に開発された足踏脱穀機「ミノル式親玉号」の開発成功により全国を席巻しました。戦後大手メーカーの参入で業績が悪化しますが、1960(昭和35)年に小松製作所と業務提携、小松部品株式会社(→現在の小松ゼノア株式会社)となり神奈川県厚木市へ移転しました。

細王舎1

細王舎2月

細王舎3

細王舎4
(細王舎の工場があった一角)

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↓↓「腰越状」伝説が残る龍護山 医王院 満福寺

↓↓源義経を祀る九郎明神社

↓↓源義経が大般若経を奉納した仙谷山 寿福寺

↓↓弁慶鍋ころがしについて

↓↓源義経を祭神として祀る白旗神社

↓↓源義経の位牌を祀る白玉山 般若院 荘厳寺

↓↓義経伝説が残る指月橋


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