指月橋(神奈川県川崎市多摩区)を訪問しました
指月橋(しげつきょう→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷2丁目)は、源義経(→源頼朝の異母弟)主従が通ったという伝承をもつ多摩川水系の旧三沢川にかかる橋です。江戸時代後期の天保年間(→1830年~1844年)に編纂された『江戸名所図会』には寿福寺十景の1つとして紹介されています。近くには義経と弁慶が大般若経を奉納したと伝わる仙谷山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)があります。
江戸時代の天明期(→老中田沼意次の頃)を代表する文人大田南畝(おおたなんぽ)の『調布日記』によると、「曹渓月を指し、霊山月と話す」の「月を指し」から指月橋(しげつきょう)と名付けられたといいます。
「小沢城址里山の会」の説明板には、源頼朝への挙兵に失敗し、追討を受けることになった義経が藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って奥州平泉へ赴く途中、寿福寺へ向かうためにこの地に来たものの、橋が朽ちて穴が空いていたため馬から降りて橋を点検したところ、ふと夜空を見上げると満月が輝いており、満月を指さしたことが指月橋の由来とされる、という旨が記されています。
ただ、追捕の網をかいくぐり伊勢・美濃を経て奥州へ逃亡した義経一行が、警備の厳しい鎌倉街道を使い、頼朝派の有力御家人である稲毛重成(→小山田有茂の子、畠山重忠の従兄弟、北条時政の娘婿)の所領を通ることを想像することは難しいのではないでしょうか。それでも、厳しい逃避行の中、ふと夜空を見上げて満月を指さし風流なひとときがあったと思いたい心情は理解できます。
指月橋は、江戸時代後期に編纂された『江戸名所図絵』仙谷山寿福禅寺の項目に次のように記されています。
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指指橋(しげつけう)
当寺門外の流れに架する板橋を號く、是も十境の一なり。
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【指月橋】





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↓↓「腰越状」伝説が残る龍護山 医王院 満福寺
↓↓源義経が大般若経を奉納した仙谷山 寿福寺
↓↓弁慶鍋ころがしについて
↓↓源義経を祭神として祀る白旗神社
↓↓義経伝説が残る二枚橋


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