正宗稲荷大明神(神奈川県藤沢市)を訪問しました
正宗稲荷大明神(→神奈川県藤沢市藤沢1丁目)は、隣接する長藤山 妙善寺(→神奈川県藤沢市藤沢1丁目)に稲荷社で、創建は鎌倉時代にまで遡ることができます。平安時代の高僧円仁が802(延暦21)年に彫刻したと伝わる仏像が、鎌倉時代後期に日蓮宗信者となった刀工五郎正宗により鎌倉に持ち込まれ、職業の守護神として崇敬されたと記されます。神仏習合の頃は神(→垂迹=仮の姿)は仏(→本地=本来の姿)と同じものとされていました。これを本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)といいます。
その後、仏像は幕府柳営(→鎌倉・若宮幕府)で正宗稲荷として祀られたとありますが、1333(元弘3)年5月22日の鎌倉幕府滅亡時に、北条方の者が兵火から仏像を守るため妙善寺まで運び出し、榎の木の枝に隠したようです。その後、刀工正宗の弟子・綱広から仏像の詳細を聞いた住職が、直ちに堂宇を建てて正宗稲荷社として祀り、今に至ります。
正宗稲荷大明神は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』高座郡坂戸町の条に「正宗稲荷社」として次のように記されています。
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坂戸町
正宗稲荷社
神体伝教(→伝教大師円仁)作、長(ながさ)七寸五分(→約22.5cm)、古(ふるく)は比叡山に鎮座あり、後(のち)播磨国法華山に移し其後(そのご)近江国に転じ、又刀工正宗(→岡崎正宗とも)鎌倉に移り祀る、故に正宗稲荷と呼ぶ、元弘三年(鎌倉時代末期→1333年)五月鎌倉兵火(→鎌倉合戦)の後、当寺に勧請せし事、安永七年(江戸時代中期→1778年)住僧日曜が記せし縁起に見えたり。
曰(いわく)、「此神体は伝教大師彫刻し、比叡山鎮護の尊像とす、後井伊権五郎致重と云(いう)者、播州(→播磨国)法華山に遷し、二百八十年を経て三条小鍛冶宗近信仰して江州(→近江国)に勧請す、正応(鎌倉時代後期→1288年~1293年)の頃、鍛冶正宗上京の時、宗近の曾孫より此神体を伝(つたえ)て鎌倉へ帰り、職業の守護神とす、正安元年(→1288年)宝剣を鍛て可棒の綸旨ありしが、其頃正宗扁手疼痛して、職業難叶に依て此神に祈り、宝剣を鍛て誉を顕す、夫(それ)より鎌倉営中(→幕府柳営)に移し、正宗稲荷と崇敬せらる、高時入道(→北条高時)滅亡の時、兵火の中を遁れ、当時境内榎の枝に降臨あり、正宗の弟子綱広藤沢に来り、神体を拝し、且(かつ)其(その)由来を詳(つまびらか)に語る、住僧直(ただち)に清檀を設け勧請せしとなり。」
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【正宗稲荷大明神の鳥居】




【正宗稲荷大明神の本殿】





【正宗稲荷大明神の狐像】






【正宗稲荷大明神の境内】






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↓↓祭祀を司る長藤山 妙善寺
↓↓鎌倉幕府の三大御所(大蔵・宇都宮辻子・若宮幕府)


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