慈眼寺(神奈川県藤沢市)を訪問しました
無量山 慈眼寺(→神奈川県藤沢市渡内)は、小田原北条氏の2代北条氏綱(ほうじょううじつな)の信頼を受けて一門に迎えられた北条綱成(ほうじょうつなしげ→玉縄城主)が、僧の韓嶺を開山に迎え、天文年間(→1532年~1555年)に開基したと伝わる曹洞宗寺院です。この場所は、平将門の乱(→939年~941年)の平定にも参加した村岡五郎こと平良文(たいらのよしふみ→下総千葉氏の祖)の邸宅跡にあるといいます。
江戸時代には本山・末寺の制により、同じく北条綱成が中興開基した功徳山 早雲禅寺 天嶽院(→神奈川県藤沢市渡内1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いいました。
鎌倉時代に作られた本尊の木造十一面観音菩薩立像は、混成樹、梵鐘とともに藤沢市の指定文化財に登録されています。梵鐘は、江戸時代前期の1629(寛永6)年に現在の江島神社(えのしまじんじゃ)にあたる金亀山 江之島寺(→神奈川県藤沢市江の島2丁目)の梵鐘として鋳造され、1771(明和8)年に慈眼寺に移されたといいます。
慈眼寺は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡渡内村の条に次のように記されています。
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渡内村
慈眼寺
本村の分内にあり、無量山と号す、天嶽院末、興開山韓嶺元和元年(→1615年)六月八日寂、開基は北条左衛門大夫綱成(ほうじょう さえもんのたいふ つなしげ)なり、本尊観音行基作長(ながさ)六尺三寸(→約190cm)を安ず、村岡五郎良文(→平良文)宅跡、峯渡内の巽方(→東南)にあり、字上屋敷と唱ふ、陸田三段余を闢(ひら)く。
按するに良文は高望王(たかもちおう→桓武平氏の祖)の五男なり、在名に因りて村岡五郎と称す、後(のち)鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん→陸奥国の蝦夷征討司令官)の宣下(せんげ)を蒙(こうむ)る、此余小五郎忠通、忠通の子鎌倉権頭景成、景成が子権五郎景政等、相続(あいつづき)て居住せしと伝ふ、宮の前村御霊社の縁起には良文の旧宅は御霊宮の北に当(あた)れり、忠通は御霊宮の南方に別に館を携へ、景成・景政等に至る迄、居住せしと見ゆ。されど微(かすか)とすべき物なし。
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【慈眼寺の山門】








【慈眼寺の本堂】







【慈眼寺の内陣】




【藤沢市指定文化財】


(旧江之島寺梵鐘)

(混成樹)

【慈眼寺の境内】



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↓↓江島神社
↓↓本山であった功徳山 早雲禅寺 天獄院


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