天嶽院(神奈川県藤沢市)を訪問しました
功徳山 早雲禅寺 天嶽院(てんがくいん→神奈川県藤沢市渡内1丁目)は、真言宗の古寺「不動院」から始まる曹洞宗寺院で、1180(治承4)年に源頼朝が鎌倉入りする途中で立ち寄り、不動明王に大願成就の祈願をしたという伝承が残ります。
戦国時代初期の1495(明応4)年、小田原城を奪取して相模平定を目指す伊勢宗瑞(いせそうずい→いわゆる北条早雲)によって伽藍の一寺が創建され、僧の虎堂玄白を迎えて曹洞宗の禅寺として開山したといいます。安土桃山時代前期の1576(天正4)年に火災で伽藍を焼失しましたが、玉縄城主北条綱成(ほうじょうつなしげ)・北条氏繁(ほうじょううじしげ)父子によって復興されたと記されます。
1590(天正18)年の小田原合戦で北条氏が滅亡した後も、江戸入りを果たした徳川家康によって保護され、1591(天正19)年11月に家康から寺領30石を拝領しています。江戸時代には、本山・末寺の制により曹洞宗の関八州僧録職にあった太平山 大中寺(だいちゅうじ→栃木県栃木市大平町西山田)の末寺となりますが、天嶽院自身も無量山 慈眼寺(→神奈川県藤沢市渡内)の本山として幕藩体制の一翼を担いました。
徳川氏一門の天嶽院への崇敬は強く、山門は水戸藩主徳川光圀(とくがわみつくに→いわゆる水戸黄門)が建立し、紀伊藩主徳川光貞(→8代将軍徳川吉宗の実父)の援助で七堂伽藍が完成し、その姿が「相中留恩記略」(巻18)に記載されています。しかし、山門を除く大伽藍は、幕末期の1855(安政2)年2月26日の火災で悉く焼失し、現在の七堂伽藍は1998(平成10)年に室町時代の様式に統一して復興したと記されています。
天嶽院は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡渡内村の条に次のように記されています。
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渡内村
天嶽院
是も嶺渡内の分内にあり、功徳山と号す、曹洞宗、野州(→下野国)富田大中寺末、昔此地に葛籠池といへるあり、文明(室町時代中期→1469年~1487年)の頃、僧虚堂池辺に草庵を営む、後(のち)玉縄城主北条左衛門大夫綱成(ほうじょう さえもんのたいふ つなしげ)、早雲(そううん→伊勢宗瑞、いわゆる北条早雲)菩提の為、一寺を創建し、即(すなわち)虚堂を開山とし、早雲法号早雲寺天嶽瑞永正十六年(戦国時代前期→1519年)八月十五日卒す、を開山と称す、院号は即(すなわち)早雲が法号に取れり。
天正四年(安土桃山時代→1576年)堂宇烏有(うゆう→火災で焼失)しけるを現住天峯中興す、六世月州が時、紀伊大納言光貞(→紀伊藩主徳川光貞、徳川吉宗の実父)堂宇を再建せられしと云(い)ふ。天正十九年(→1591年)十一月、村内にて寺領三十石を附せられ御判物を賜ふ、本尊千手観音を置く、寺宝に天正小田原陣(→小田原合戦)に豊太閤(→豊臣秀吉)の出せし制札を蔵すれど全く村里に出せしものなり。
山門 左右に廊廻あり。
衆寮
学寮
鐘楼 安永三年(江戸時代中期→1774年)新造す。
祖師堂
鎮守社
不動院
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【天嶽院の参道】




【天嶽院の山門】





【天嶽院の中雀門】




【天嶽院の本堂】


【天嶽院の僧堂】



【天嶽院の不動殿】








【天嶽院の浄聖殿】

【天嶽院の鐘楼】



【天嶽院の境内・庫裏】







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↓↓末寺であった無量山 慈眼寺


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