渡内日枝神社(神奈川県藤沢市)を訪問しました
渡内日枝神社(→神奈川県藤沢市渡内3丁目)は、平安時代前期の923(延長元)年に「相模国の賊を討伐せよ」という醍醐天皇(だいごてんのう)の勅命を受け相模国鎌倉郡村岡に下向した平良文(たいらのよしふみ→下総千葉氏の祖で村岡五郎と称した)が、屋敷地裏山の宮山に大山咋神(おおやまくいのかみ)を勧請して鎮神として祀ったことから始まります。

千葉神社(→千葉県千葉市中央区院内1丁目)の碑文によると、平将門の乱(→939年~941年)で、平良文は甥の将門に味方して平貞盛(たいらのさだもり)と染谷川(→群馬県)で戦ったとあります。
しかし、平良文はこの時期に陸奥守(むつのかみ)兼鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に補任されており、将門滅亡後に将門の旧領である下総国相馬郡(→相馬御厨)を与えられていることから、実際には将門を滅ぼした藤原秀郷(ふじわらのひでさと)や平貞盛側に加わっていたことが分かります。
室町時代前期の1420(応永27)年に福原左衛門という人物が社(やしろ)を現在地に移し、祭神に平良文(村岡五郎)の霊を合祀したようです。江戸時代前期の1607(慶長12)年6月には福原孫十郎重種が社殿を再建したと記されます。神仏習合の頃は福原左衛門の子孫の里正左平太が祭祀を司ったようです。
〖祭神〗
・大山咋神(おおやまくいのかみ)
・平良文(たいらのよしふみ)
渡内日枝神社は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡渡内村の条に「山神社」として次のように記されています。
************************
渡内村
山神社
峯渡内の鎮神なり、村岡良文(→平良文)の霊を合祀す、青石を神体とせり図上の如し(→絵は省略)、当社は昔字(あざ)宮山にあり、村岡良文宅地の鎮神たりしが応永二十七年(→1420年)福原左衛門と云(い)うもの、里正左平太の祖、此地に移し、良文の霊を合祀すと云ふ、慶長十二年(→1607年)六月福原孫十郎重種再建の棟札あり、例祭は正月十七日・六月十五日の両度なり、里正左平太持(もち)下同(→以下同じ)、社地に古松あり、囲一丈一尺。
末社 山神 秋葉
************************
【渡内日枝神社の参道】


【渡内日枝神社の鳥居】


【渡内日枝神社の社殿】






【渡内日枝神社の中央祠】




【渡内日枝神社の右祠】

【渡内日枝神社の左祠】

壺井三社大権現(源頼義・源義家父子・徳川家康)
【渡内日枝神社の境内】







************************
↓↓千葉神社について
↓↓御霊信仰と将門塚について
↓↓戒法山 宝国院 二伝寺と平良文の墓


スポンサーサイト

コメント
Re: No title
コメントありがとうございます。
10世紀の承平・天慶の乱は、武士の台頭の道筋からも、この乱の武功者の末裔が中央の軍事貴族へ進出を果たすことになったことに乱後の意義を見出せます。慈円の歴史書『愚管抄』には、将門の行為とは別に、その鎮圧者(→藤原秀郷・平貞盛ら)たちへの着目があります。彼らの存在こそが「ムサ(武者)ノ世」の助成を為したとの理解です。平将門の乱の鎮圧者も将門と同質の武力保持者であり、彼らへの恩賞授与を介し軍事貴族が誕生しました。具体的には、将門の乱の鎮圧者たちにもたらされた「兵受領」(つわものずりょう)や「鎮守府将軍」といった中央の官職です。平良文の末裔に限らず、先祖を承平・天慶の乱の平定に参加した功績者とし、中央の有力権門との繋がりを強調する家伝を創作する必要もあったと思われます。
2023-03-30 18:29 副会長 西住りほ URL 編集
No title
2023-03-30 08:58 形名 URL 編集