円光寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました
城護山 明王院 円光寺(→神奈川県鎌倉市植木)は、戦国時代に玉縄城主北条氏時(→北条早雲こと伊勢宗瑞の子)が祈願寺として開基、僧の澄範が開山した真言宗大覚寺派寺院です。当時は玉縄城内の南側にあり、円光寺曲輪(くるわ)などの名を残しています。澄範は1559(永禄2)年12月19日に死去しているため、創建はそれ以前であることが分かります。
北条氏時は、1526(大永6)年に安房国の里見義豊(さとみよしとよ)・里見実堯(さとみさねたか)が鎌倉に乱入してきた際に、戸部川でこれを迎え撃ち、これを撃退した武将として知られています。この大永鎌倉合戦の兵火で鶴岡八幡宮(→神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目)の社殿が焼失しましたが、1540(天文9)年に関東管領の北条氏綱(→氏時の兄)によって再建されました。
円光寺は、江戸時代前期の1619(元和5)年に一国一城令の既定により玉縄城が廃城となったため現在地に移転しました。江戸時代の頃は高野山真言宗の飯盛山 仁王院 青蓮寺(→神奈川県鎌倉市手広)の末寺でしたが、現在は真言宗大覚寺派の大本山である嵯峨山 大覚寺(→京都府京都市右京区嵯峨大沢町)の末寺に属しています。
円光寺は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡城廻村の条に次のように記されています。
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城廻村
円光寺
城護山明王院と号す、古義真言宗、手広村青蓮寺末、開山は澄範と云(い)ふ、法印権大僧都阿闍梨(あじゃり)永禄二年(戦国時代中期→1559年)十二月十九日寂す、相伝へて北条左馬助氏時(→北条早雲こと伊勢増瑞の子)玉縄城中に開基し祈願所とす、城跡の南辺に今も円光寺曲輪(くるわ→防御施設)の名残れり、而来(じらい→以来)彼(かの→玉縄)城主の祈願所なりしに元和五年(江戸時代前期→1619年)廃城となりし後、此地に転ずと伝へり、本尊不動長(ながさ)一尺七寸(→約51cm)を安ず。
薬師堂
行基の作仏を置く、長(ながさ)二寸七分(→約8cm)。
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【円光寺の参道】


【円光寺の本堂】






【円光寺の薬師堂】



【円光寺の境内】



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