二伝寺(神奈川県藤沢市)を訪問しました
戒法山 宝国院 二伝寺(→神奈川県藤沢市渡内3丁目)は、戦国時代の1505(永正2)年に玉縄城主北条氏時(→北条早雲こと伊勢宗瑞の子)が開基、僧の正空が開山したした浄土宗寺院です。開山の正空は、北条時国の子として武蔵国品川で生まれ、鎌倉光明寺の9代住職祐崇のもとで出家して同寺の10代住職となり、1519(永正16)年3月に死去したと記されています。
二伝寺は、北条氏滅亡後に衰退したようですが、江戸時代初期に玉縄城主となった松平正次(まつだいらまさつぐ)によって中興され、天照山 蓮華院 光明寺(浄土宗大本山→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。
1619(元和5)年、一国一城令の既定により玉縄城は廃城となりますが、正次の子孫が玉縄藩を治めました。二伝寺境内には松平正次一族の墓があります。
また、寺のある山の山頂には平安時代にこの地を治めた平良文(たいらのただふみ→下総千葉氏の祖)・平忠光(たいらのただみつ→良文の子)・平忠通(たいらのただみち→忠光の子、相模三浦氏の祖)の墓と伝わる塚があります。
二伝寺は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡渡内村の条に次のように記されています。
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渡内村
二伝寺
峯内内の分内にあり、戒法山宝国院と号す、浄土宗、鎌倉光明寺末。開山正空(→光明寺10代住職)、忍蓮社浄誉と号す、武州(→武蔵国)品川の産(うまれ)、北条時国の子なり、本山九世の僧祐崇(→光明寺9代住職)に従(したがい)て薙染嗣法、同寺十世の住職となり、永正十六年(戦国時代前期→1519年)三月寂す、永正二年(→1505年)に創建す。
里正左平太の祖先福原左衛門忠重も力を致せて創立せる由、彼が家伝に見ゆ、開基は玉縄城主北条左馬介氏時(ほうじょう さまのすけ うじとき→伊勢宗瑞の子)なり、法号大虚院翁宗達(大禅大門)と云(い)ふ、享禄四年(戦国時代前期→1531年)八月十八日卒す、享禄二年(→1529年)八月、氏時の出せる寺内の掟書を蔵せり、曰(いわく)、「彼寺家諸公事ニ付、横合之儀永令停止之畢、幷竹木以下不可切取之者也、依掟如件、享禄二年巳丑八月十九日、戒法山二伝寺、左馬助氏時華押」。
御分国(→徳川家康の関東入封)の後、松平左衛門正次中興す、本尊弥陀、長(ながさ)一尺七寸(→約51cm)、恵心(→『往生要集』を著した平安時代の僧侶源信、恵心僧都とも)作を安ず、元和七年(江戸時代前期→1621年)の磬(けい→音を鳴らす仏具)あり、銘に「相州大住郡西見庄村岡郷玉縄戒法山二伝寺当住物、当寺七世頓蓮社相□上人之造立干時、元和七年十月十五日、施主敬白、子合大工吉久左近」と彫る、按ずるに大坂は小坂の誤(あやまり)なり、本堂、寺号の扁額を掲ぐ、天和二年(江戸時代前期→1682年)韓人春斎の筆。
……(寺宝省略)……
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【二伝寺の山門】



【二伝寺の本堂】







【二伝寺の内陣】







【二伝寺の説明版】


【二伝寺の境内】


【二伝寺の裏山】



【二伝寺の平良文の墓】

【二伝寺の平忠光の墓】

【二伝寺の平忠通の墓】

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↓↓同じく北条氏時が開基した城護山 明王院 円光寺
↓↓本山であった天照山 蓮華院 光明寺
↓↓平良文が創建した社から始まる渡内日枝神社


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