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北条軍無名戦士の墓(東京都多摩市)を訪問しました

関戸合戦は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月16日に、霞ノ関(→東京都多摩市関戸)で行われた新田義貞率いる討幕軍と、北条泰家(→北条高時の同母弟)率いる鎌倉幕府軍との間で行われた戦いです。古戦場の近くにはこの戦いで討死した幕府軍の無縁仏を埋葬した「北条軍無名戦士の墓」(→東京都多摩区関戸5丁目)があります。

さて、『太平記』に記された内容が現実の出来事かを確かめるには、同時代の史料を確認する方法が一番です。1333(元弘3)年に作成された「後藤信明軍忠状」という軍忠状(→合戦に参加した武士が自身の軍功を総大将に上申して承認を受け、武勲の証拠とした文書)があります。これには5月15日に討幕軍に加わった後藤信明という武士が分倍河原合戦で軍功を挙げたと記されています。他にも「大河戸隆行軍忠状」には5月16日に分倍河原合戦に参加したことが記されています。これら同時代の史料や板碑から、5月15日~16日に分倍河原と関戸で合戦が行われたことが分かるのわけです。ただ、軍忠状は総大将の新田義貞にではなく、新田氏の「本家」にあたる足利高氏(尊氏)に対して出されていることから、足利高氏の呼びかけに応じて多くの武士が駆けつけたことが見えてきます。

鎌倉・室町幕府の的始(まとはじめ→武家の正月行事)記録である『御的日記』(おまとにっき)には、関戸合戦で北条泰家を守って討死した横溝八郎高貞(よこみぞはちろうたかさだ)についての記録があり、横溝八郎が弓を10本中9本命中させたことが記されています。関戸合戦で、北条軍は戦闘力に秀でた武将を失ってしまったことが分かります。


【北条軍無名戦士の墓】
北条軍無名戦士の墓1

北条軍無名戦士の墓3

北条軍無名戦士の墓2

北条軍無名戦士の墓4

北条軍無名戦士の墓5



【横溝八郎の墓】
横溝八郎の墓1

横溝八郎の墓2

横溝八郎の墓3

横溝八郎の墓4

横溝八郎の墓5


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↓↓関戸古戦場跡

↓↓分倍川古戦場跡


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