妙蓮寺(神奈川県横浜市都筑区)を訪問しました
城根山 妙蓮寺(→神奈川県横浜市都筑区川和町)は、南北朝時代の1344(康永3)年に、日蓮の孫弟子にあたる越中阿闍梨朗慶(えっちゅうあじゃりろうけい)が熊井太郎忠基(→源義経の側近)の旧跡に草案を構えた所から始まる日蓮宗寺院です。その後、長禄年間(室町時代中期→1457年~1461年、8代将軍足利義政の頃)まで途絶えますが、当時の江戸谷中感応寺(→現在の護国山天王寺、東京都台東区谷中7丁目)の日耀により再興され、戦国時代の1530(享禄3)年に裏山から現在地に移転し、城根山妙蓮寺と称したと記されます。日曜は武蔵国守護の扇谷上杉氏の家宰太田道灌(おおたどうかん)とも親しく、道灌が著した『平安紀行』には、川崎宿で休憩していた道灌に日耀が果物を届けたという記述があります。
妙蓮寺は、江戸時代には本山・末寺の制により、日蓮宗総本山・身延山久遠寺(→山梨県南巨摩郡身延町身延)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。江戸時代中期の元文年間(→1736年~1741年、8代将軍徳川吉宗の頃)に火災で全てを失ったようですが、1793(寛政5年)に本堂を再建、1826(文政9)年に祖師堂を再建したと伝わります。
妙蓮寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡川和村の条に次のように記されています。
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川和村
妙蓮寺
除地、二段五畝歩、村の南の方にあり、城根山と号す、日蓮宗にて甲斐国身延山久遠寺(→山梨県南巨摩郡身延町身延)の末寺なり、古(いにしえ)は江戸谷中感応寺(→現在の護国山 天王寺、東京都台東区谷中7丁目)の末寺なりしと云(いう)、思ふに感応寺改宗の時より身延(→久遠寺)の末に属せしなるべし、縁起を閲(み)るに、康永三年(南北朝時代→1344年)越中阿闍梨朗慶村内城山の麓に、草庵を結びて棲運の地とせり、貞治五年(→1366年)入寂の後中絶せしが、後に江戸谷中感応寺の日耀、長禄年中(室町時代中期→1457年~1461年)再興してここに移り住せり。
按ずるに此(この)日耀は、荏原郡碑文谷村法華寺(→現在の経王山 文殊院 円融寺、東京都目黒区碑文谷1丁目)六世の住僧にて、文明六年(→1474年)三月十五日寂せり、又太田道灌(おおたどうかん)が「平安紀行」に川崎の宿に休みける折節、長光寺日耀がもとよりくだ物(→果物)など僧にもたせて送りしよしみえたり、もしこの人にや、さればこの比道灌などとも親しき人とみえし、それより、僧日慶在住の時まで、かの城山の辺にありしが、享禄三年(戦国時代→1530年)三月十三日、今の地へ引移してより始(はじめ)て城根山妙蓮寺と号せり、又その頃有信の士人(→武士)、長崎遠江(ながさきとおとうみ)といひし者の子に、善左衛門政安と云(いう)ものあり、信心無二の人なりければ、宗祖日蓮の像を造立せり、これ天文八年(→1539年)なり。明(あく)る九年(→1540年)に日慶化す、其頃のことにや、政安(→長崎政安)田畑五十石余の地を開墾して当寺へ附せしと云(いう)。
その後しばしば住僧たえて、坊中の看守の持(もち)なりしが、寛永九年(江戸時代前期→1632年)此村(このむら→川和村)検地のとき、古来寺域の外二段の地を免除せられしとぞ、天和三年(→1683年)客殿以下の造営をくはだて(→企て)、八月に至りことごとく成しと云(いう)、今の客殿はその頃のさまを失はざるにや、大(おおき)さ八間に七間ありて、本尊三宝祖師を安ぜり、又昔は別に祖師堂もあり、その本尊は朗慶の彫刻なりと云(いう)、この堂一旦回禄(→火災)にかかりてより後、客殿に安ずと云(いう)、長(ながさ)一尺(→約30cm)許(ばかり)の坐像なり。
鐘楼
境内に入て左にあり、鐘に宝永三年(→1706年)の銘文を彫る。
七面社
……(省略)……
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【妙蓮寺の山門】



【妙蓮寺の本堂】





【妙蓮寺の内陣】


【妙蓮寺の鐘楼】



【妙蓮寺の祖師堂】



【妙蓮寺の境内】


(日蓮像)

【裏山の石碑】
妙蓮寺発祥地は平安時代末期に源義経(→頼朝の異母弟)の側近として仕え、1184(寿永3)年2月7日の一の谷合戦で武功をたてた熊井太郎忠基(くまいたろうただもと)の旧跡と伝わり、城山に石碑が建っています。





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