極楽寺(神奈川県横浜市緑区)を訪問しました
顕弘山 蓮花院 極楽寺(→神奈川県横浜市緑区西八朔町)は創建年代の詳細は不明ですが、戦国時代に僧の元海が中興開基したと伝わる真言宗豊山派寺院です。元海は1533(天文2)年に死去しているため、中興は北条氏綱(→小田原北条氏2代目)が扇谷(おうぎがやつ)・山内(やまのうち)両上杉氏と激しく戦っていた頃と推察されます。
ご住職の話によると、本山にあたる星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)の住職の多くが、この極楽寺の住職を経てから王禅寺に入ったとのことです。極楽寺の寺紋は「葵紋」ですが、これは江戸時代前期の1649(慶安2)年に、幕府(→3代将軍徳川家光の頃)から別当寺を務めた西八朔杉山神社(→隣接する式内論社)に対して5石6斗の社領を拝領したため、それを記念してつけたようです。
ご住職はアメリカで活躍した彫刻家のイサム・ノグチ氏、及びノグチ氏を紹介した横浜出身の彫刻家田辺光彰(たなべみつあき)氏と陶芸や彫刻を通して親交があったといい、極楽寺の本堂には田辺光彰氏が制作した爬虫類のテラコッタや籾のブロンズ像などが展示されているようです。ご住職から頂いた田辺光彰写真集に本堂にある作品群が掲載されていました。
極楽寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡西八朔村の条に「(西八朔杉山神社の)別当極楽寺」として次のように記されています。
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西八朔村
別当極楽寺
新義真言宗、王禅寺村王禅寺末、顕弘山蓮花院と号す、中興開山元海天文二年(戦国時代→1533年)に寂す、客殿九間に七間南向(みなみむき)なり、本尊大日は坐像にて、長(ながさ)一尺(→約30cm)許(ばかり)、慶安年中社領(→管理する西八朔杉山神社に対して)の社領の御朱印を賜ふ、其文左にのす。
「武蔵国都筑郡西八朔村、極楽寺杉山明神社領同村之内五石六斗事、任先規寄附之訖、全可収納、幷境内山林竹木諸役等、免除如有相違者也。 慶安二年八月廿四日 御朱印」
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【極楽寺の参道】









(左は廃仏毀釈の痕跡)

(廃仏毀釈の痕跡)


(地神塔・馬頭観音)
【極楽寺の山門(長屋門)】



【極楽寺の本堂】







【極楽寺の鐘楼】


【極楽寺の境内】



(空海像)




(サルスベリ)
【境内のイトヒバの巨木】

(横浜市指定名木)
【田辺光彰氏の作品】

(ご住職から頂いた写真集)

(極楽寺所蔵作品)

(極楽寺の内陣)

(極楽寺所蔵作品)
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↓↓極楽寺別院の光明山 世尊院
↓↓本山の星宿山 蓮華蔵院 王禅寺
↓↓別当寺として祭祀を司った西八朔杉山神社
↓↓真言宗寺院がターゲットとなった廃仏毀釈


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