宝袋寺(神奈川県横浜市緑区)を訪問しました
八幡山 宝袋寺(→神奈川県横浜市緑区十日市場町)は廃寺となった慈性寺の跡地にあり、江戸幕府開府前後の慶長年間(→1596年~1615年)に慈雲寺 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)の住職顕堂長察によって創建されたと伝わる曹洞宗寺院です。寺号はこの地で古い巾着袋が堀り出されたことに由来するようです。
真偽の程は定かでありませんが、本尊の聖観音坐像は運慶(→東大寺南大門の金剛力士像などを彫った鎌倉時代を代表する仏師)の作と伝わります。寺宝に小田原北条氏が家臣の板部岡江雪斎に宛てたとされる書状がありますが、宛名が「上総入道道方へ」とあるので法号「上総入道道感」を名乗った玉縄城主北条綱成(ほうじょうつなしげ)に宛てたものと思われます。
宝袋寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡十日市場村の条に次のように記されています。
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十日市場村
宝袋寺
除地、八畝二十四歩、字中村の内鈴木栄次郎の采地にあり、禅宗曹洞派、長津田村大林寺の末、八幡山と号す、客殿九間に六間西向(にしむき)なり、本尊聖観音木の坐像長(ながさ)一尺(→約30cm)ばかり、運慶の作なりと云(いう)、開山顕堂長察、寛永九年(江戸時代前期→1632年)八月二十六日寂す、当寺の辺に字慈性寺と云(い)ふ所あり、谷間なれば其所くぼみし地にて薬研の形に似たり、古(いにし)へここにかの慈性寺といへるありしよし、後廃寺となり当寺を起立せり、寺跡は三段ばかりの処(ところ)にて、たまたま古き巾着を堀出せしことあるにより、寺号とせしと云(いう)、是はうきたる説なり、門は西に向へり、当寺に北条家より岡江雪(→板部岡江雪斎)へ与へし文書なりとて一通を蔵せり、この文書の宛所に上総といひしことを聞かず、されば(板部岡江雪斎へでなく)別人に与へしものならずや。
定条々
一、来十日陣夫被相集早速可出馬候弥支度可被申付事。
一、其方者温気之砌ニ候間此度之出陣被相止留守尤候人数之仕分様子者著到之内百人足柄廿人其方ニ付置弐百人参陣可為此分候然ハ此仕分悉記交名来六日可被為見候於此度者関東之本意之際ニ候間大事之動ニ候間留守動者共ニ少モ無相違手堅人衆之仕置可被申付候就中前々被定置候軍法之品々一色無相違様是又改而可被申付事。
以上
右定所如件
北条氏虎印あり
卯月三日
上総入道道方へ
八幡社
後背の山上にあり、覆屋二間四方坤向(→南西)なり、神体は画像にて近代のものなり。
鐘楼
客殿に向て左の方にあり、元文五年(→1740年)の銘文あり、後証に益なければ略す。
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【宝袋寺の山門】

【宝袋寺の本堂】





【宝袋寺の鐘楼】


【宝袋寺の瑠璃光堂(薬師堂)】
本尊の薬師如来は寅年に公開されるようです。


【宝袋寺の境内】




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↓↓宝袋寺の本山である慈雲山 大林寺
↓↓宝袋寺と同じく顕堂長察が開山した放光山 宗泉寺


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