能満寺(神奈川県川崎市高津区)を訪問しました
星王山 宝蔵院 能満寺(→神奈川県川崎市高津区千年)は、もとは奈良時代の740(天平12)年頃に聖武天皇の勅命により創建された威徳山 月光院 影向寺(ようごうじ→神奈川県川崎市宮前区野川)の塔頭十二坊の1つとして行基が創建した天台宗寺院と伝わりますが、戦国時代の天文年間(→1532年~1554年)に現在地に移転し、僧の快賢によって開かれました。塔頭十二坊は本尊の薬師如来両脇侍像を守る12神の1体ずつを祀った堂宇で、「能満寺」もそのうちの1つだったようです。
能満寺の本尊は南北朝時代の1390(明徳元)年に仏師朝祐によって彫られた寄木造(よせぎづくり)の虚空菩薩立像(→市重要歴史記念物)で、川崎市教育委員会によると玉眼入りの漆地に彩色を施した中国の南北朝様式の影響が認められるといいます。
能満寺は、保護者であった小田原北条氏の滅亡で衰退しましたが、1714(正徳4)年に死去した僧の観空によって中興開基され、浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。
能満寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡清沢村の条に次のように記されています。
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清沢村
能満寺
村の西にあり、字花井坂と云(いう)所なり、星王山宝蔵院と号す、天台宗多磨郡深大寺村深大寺の末山なり、開闢(かいびゃく→創建)は行基菩薩なり、されど古きことにてもろより詳(つまびらか)なる証もなければしばらくをきて、近き世の中興開基を観空と云(いう)、この人は正徳四年(→1714年)五月十五日寂せり、本尊は虚空蔵木の立像にて長(ながさ)三尺(→約90cm)慈覚大師(→円仁)の作なりと、昔の本尊は聖徳太子(→厩戸王)が作り給ふ所なりしと云(いう)、これはいかがして失(うしない)たりや今はなし、客殿は六間四方南向きなり、門は柱間八尺前に石階二十八級あり。
鐘楼
客殿に向て左にあり、八尺四方、鐘銘は正徳四年(→1714年)二月十二日現住職観空鋳成の由、及(および)当山は行基菩薩起立の古跡なることを刻せり。
不動堂
客殿に向て左にあり、則(すなわち)護摩堂なり、本尊は木の坐像にて長(ながさ)三尺(→約90cm)余、この余(ほか)弁天及び松尾明神の像を安ず。
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【能満寺の参道】


【能満寺の山門】


【能満寺の本堂】




【能満寺の鐘楼】


【能満寺の不動堂(護摩堂)】



【能満寺の境内】


(六地蔵)



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↓↓本山の浮岳山 昌楽院 深大寺
↓↓深大寺そばと深大寺について
↓↓元本山の威徳山 月光院 影向寺


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